拓海広志「鯨の向こうに見えるもの(2)」

 これは今から15年くらい前に書いた文章ですが、よかったらお読みください。


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 太地鯨方による網捕法とは、太平洋を回遊するマッコウクジラセミクジラが沖合を通るのを、岬(灯明崎、梶取崎)の先端に設けられた山見台(クジラの見張り台)の見張り役が発見し次第、船団を組んで沖に漕ぎだし、クジラを追いつめて網を掛け、クジラが弱ってくるのを見計らって、羽刺と呼ばれる若者が海中に飛び込み、クジラの急所を短刀で切り裂いて殺すという勇壮なものであった。


 このような捕獲法はクジラの個体数の増減に大きな影響を及ぼすものではなかった筈だが、江戸時代後半になると太地沿岸に寄りつくクジラの数が激減していた。その理由は太地の人々の知るところではなかったが、それはアメリカの捕鯨船団による北太平洋上での乱獲が原因であった。


 ペリーが浦賀に来航した目的の一つは日本近海までやって来るようになった米捕鯨船の日本寄港を認めさせることであったことを思い出してほしいが、当時のアメリカの捕鯨は、食用は勿論のこと、クジラのありとあらゆる部位を利用する日本の捕鯨とは大きく異なり、鯨油を取ることだけが目的であったので、捕鯨船上で鯨油を取ったあとの鯨体は海中に投棄し、クジラを求めて太平洋を走り回っていたのである。


 アメリカの捕鯨業は1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されたことから起こったゴールドラッシュによる水夫の金山への逃亡、次いで油田の発見によって石油が鯨油に取って代わったことなどから急速に凋落していったが、その頃には北太平洋のクジラは激減していたのである。


 ところが、そんなことは露知らぬ太地鯨方は1878年(明治11年)末、正月を前にして不漁の続く中、「背美の子持ちは夢にも見るな」という鯨捕りに伝わる戒めの言葉を破って、子連れのセミクジラを追って出漁した。彼らはクジラを網に掛けることには成功したものの、そのまま東南の沖合に引っ張られ、一夜明けて黒潮の急流に乗ってしまう。そして、西からの強風に襲われ、船団は壊滅してしまった。こうして、太地鯨方300年の歴史には終止符が打たれたのである。


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 ところが、生活の糧を失ってしまった太地の人々のうちの一部が目指した地が、鯨方壊滅の遠因を作ったアメリカであったというのは面白い。


 彼らの多くは西海岸のサンペドロ周辺に住みついたというが、農業が主体だった日本人移民の中で太地からの移民は異色で、彼らは漁業や漁具の製造・販売などに従事し、成功して帰郷した例が少なくない。


 これは彼らの持っていた縄文以来の海洋民の伝統と、江戸時代以来の捕鯨マニュファクチュアとその周辺産業を通して鍛えられてきた流通業者としての才覚が力を発揮したせいだと思うのだが、彼らの中には天職とも言える捕鯨業に従事した者も少なくはなかった。


 そこで、彼らはノルウェー式の近代捕鯨術を学ぶことになるのだが、やがてそうした人々が日本に戻り、後の南氷洋捕鯨に欠かせぬ人材となっていったのである。


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 日本の南氷洋捕鯨が全盛を迎えたのは太平洋戦争後のことである。戦後の日本の食糧難に対処するため、GHQは米国の強い意向を受けて日本に捕鯨再開を許可したが、南氷洋にクジラ乱獲の嵐が吹き荒れたのはそれから数年後のことで、いわゆる「捕鯨オリンピック」と呼ばれる時代の到来だ。


 当時は全ての鯨種をその重量に基づいてシロナガスクジラの頭数に換算して全体の捕獲枠を決定するというBWU方式が採用されていたが、これが資源管理の方法としてはあまりにも愚かなものであったことは歴然としている。


 このBWU方式の下で、ソビエト、イギリス、南アフリカノルウェー、オランダ、日本の六カ国が早い者勝ちでクジラを捕りまくったわけだが、その結果南氷洋におけるクジラの危機的状況は誰の目にも明らかとなった。


 捕鯨の対象はシロナガスからナガス、ザトウ、イワシと次々に小さなクジラへ移っていき、やがてそれまでは誰も相手にしなかったミンクのような小さなクジラ(体長は約10メートルしかなく、ヒゲクジラの中では最も小さい)が対象となってしまった。


 しかし、クジラから油しか取らないヨーロッパ諸国と比べて、肉を食べる日本の捕鯨の方が採算的に優位に立つのは当然のことである。その上、ミンクは採油原料比が小さすぎるということもあり、イギリスやオランダは植物油の安定供給が可能になると同時に南氷洋から撤退したのであった。


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 そんな状況下において、1972年のストックホルム国連人間環境会議は開催されたわけだが、そこでは既に国際的な問題となってきていた自然環境の破壊や公害問題、またベトナム戦争での米軍の細菌兵器使用の問題などが糾弾され、日本の水俣病イタイイタイ病や工場排気による喘息なども問題として取り上げられていた。そして、その会議上に南氷洋でのクジラの乱獲問題が提出されたのであった。


 この会議を契機に欧米諸国を中心とした反捕鯨運動は高まりを見せ、日本の捕鯨業は次第に追いつめられていき、1982年になるとIWC(国際捕鯨委員会)は商業捕鯨の全面モラトリアムを採択したのである。この商業捕鯨モラトリアムに際して、IWCはその管理下にある全ての捕鯨を「商業捕鯨」と「原住民生存捕鯨」という二つのカテゴリーに分類し、後者についてのみ捕獲を許可した。


 この分類法はかなり恣意的なものであるが、そこには捕鯨モラトリアムを強硬に主張してきた筈のアメリカが、自国民のエスキモーに対して「原住民生存捕鯨」として捕獲を認めたホッキョククジラこそが、正に絶滅の危機に瀕している種であるというような矛盾もあり、パワー・ポリティクスの残像も見え隠れしているようだ。


 しかし、欧米の自然保護団体の中には、日本が行っている「調査捕鯨」に対しても、形を変えた「商業捕鯨」であるとして批判する団体もあり、南氷洋海域を聖域として人間の立ち入りを一切禁止しようという動きもある。


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 かくて、太地の人々はまたしても生業であった捕鯨業を奪われることになったのだが、この反捕鯨運動の中心に立ったのがアメリカであったことは歴史の皮肉である。


 クジラを生活の糧としてきたのは捕鯨船の船員だけではなく、クジラの解体(鯨捕りは「解剖」と呼ぶ)、加工、流通などに従事する人の数も加えるならば、その数は決して少なくない。


 捕鯨やクジラの解体・加工にはかなり特殊な技術を要する点が多く、そこで培われてきたものを他の魚の漁や加工などで活かすことは困難だと言われているが、同時にこれらの技術は一度失われてしまえば回復させるのも難しいものである。


 そこで、日本からは「地域産業保護」「伝統文化保護」としての捕鯨再開運動が芽生えてきたわけだが、これは捕鯨オリンピックの時代に時計の針を戻そうとするものではなく、対象を南氷洋で捕獲できるクジラのうちその個体数の大きいミンクに限定し、しかも適正な上限を決めた上で、その枠の中で捕鯨を行おうと主張するものである。


 これに対する欧米諸国の反応は冷ややかであったが、例えば文化人類学者のミルトン・M・R・フリーマン氏のように、日本の捕鯨文化に理解を示し、「捕鯨者も自然の生態系の一部である」と言い切ることができるほどに海をよく知っている日本の捕鯨者の存在を積極的に評価する欧米の学者もいないわけではない。


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 海の最終捕食者であるクジラがその生態系において重要な役割を担っていることは間違いない。その意味では、クジラはエコロジカル・シンボルとなるための条件を備えているとも言えるのだが、クジラたちを宗教的対象物のごとくに持ち上げて偶像崇拝する思想については疑問がある。


 実のところエコロジーと宗教には多くの接点があるので、こうした思想が生まれてくることは避けがたいし、時にはそうした宗教的なブレーキがかかることによってエコロジカル・バランスが保たれることもあるので、それを過小に評価するつもりはないのだが、クジラを過大に偶像化する思想は結局のところ自然を自分たちに都合良く矮小化しているとも言えるのではなかろうか。


 クジラをめぐる問題は、僕たちに対して実に多くの現代的課題を突きつけてきている。「エコロジカル・バランス」の問題、「伝統文化とアイデンティティ」の問題、「自然と信仰・宗教の関係性」の問題など、クジラを通して考えねばならないことはたくさんありそうだ。


 勿論、捕鯨は人間のクジラとの付き合い方の一つであり、捕鯨文化・鯨食文化を有する僕たちはその意味合いをもっと深く考察する必要があるが、同時にクジラという海のことを最もよく知っている哺乳動物との交流はもっと豊かで多彩なものであってもよい筈だとも思う。何よりも「海との付き合い方」を人間に教えてくれる動物としてはクジラが最も適任であり、僕たちは彼らから学ぶべき点が多々ある筈なのだから・・・。


 クジラを捕獲して食べることと、クジラの姿に自然神の神々しさを見て崇めること。またクジラを眺めたり共に泳いだりすることで心を癒やすことと、クジラの生態を知ることによって海の生態系に対する知見を増やすこと。そうしたことが全て同列に評価されうる世界を僕は望んでいる。


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 太地町では捕鯨業の全盛期には町の税収の約60%が捕鯨関連産業によるものだったが、現在ではそれがわずか2%にまで落ち込んでいるという(現在、太地で行われているのは、ゴンドウクジラなどの小型の歯クジラを対象とした沿岸捕鯨である)。


 人口わずか4千人強の小さな町を支えてきた伝統産業が失われていく中で、北さんらは「くじらの博物館」を「国際鯨類研究センター」にまで高めていこうという構想を抱いておられる。


 そこでクジラをはじめとする海洋哺乳類に関する最新の研究を行うと共に、それを通じて町のアイデンティティの再確立と活性化を実現し、またかつて捕鯨船に乗っていた船員たちの知見をもそこに導入していこうというのが、この構想の骨子だ。この有意義な構想が実現することを願ってやまない。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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