拓海広志「捕鯨をめぐる話(1)」

 2000年4月に和歌山県太地町を訪ね、くじらの博物館前館長の北洋司氏宅にて太地の家庭料理としての鯨料理をご馳走になりながら、北氏から太地町捕鯨の関わりについてお話をうかがうミニツアーを催したのですが、それに引き続き同年5月には新宿歌舞伎町にある居酒屋「樽一」にて「鯨祭り」と称する催しを行い、日本鯨類研究所理事長の大隈清二氏より「最近の捕鯨問題」という題の講演をしていただいた上で、「樽一」店主の佐藤孝氏より同店自慢の鯨料理の数々をご披露いただきました。今回はその席上で僕がお話したことを紹介させていただきます。


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 皆さん、こんにちは。捕鯨業の現状については先ほど大隈先生の方から大変詳しい話をお聞かせいただきましたので、僕の方からは日本の近代捕鯨業変遷史の概略についてごく簡単にお話させていただきます。


 この会では人間と自然とモノの関係性について考えてみようというテーマを持って種々の活動をしているのですが、それを単に人間と自然の関係性というふうにしていないのは、そこにモノを介在させることによって議論が抽象的になることを避け、より具体性な話をしていこうという問題意識があったからです。勿論、ここで言うところのモノには食べ物や生き物も含まれます。


 それで今日の話はクジラというモノを介して人間と自然の関係について考えてみようということになるわけですが、先ほどの大隅先生のお話の中でもご指摘があったように反捕鯨論者の議論にはクジラという生き物の具体性を忘れてしまって、一種のメタファーというか象徴としてクジラを語っている論理というのが少なからずあるわけですね。


 それから他方では大隅先生のように生物としてのクジラを研究し、食資源管理という見地から捕鯨業を見つめておられる方々もいるわけですが、そういう努力がメタファーとしてクジラを神格化してしまっている論理に対しては必ずしも有効性を持ちえず、お互いに全く次元の異なるところでのやり取りになっているような気がします。そして、それが昨今のIWC(国際捕鯨委員会)の膠着状態を生み出している理由の一つであるように思うのです。


 ところが、それならばIWCで反捕鯨を掲げる国が全部そういう論理で一色なのかと言うと、必ずしもそうではないと僕は思います。ただ、マスのレベルで人々を感化しようとする場合でも、また政治の舞台でイメージ戦略を展開する場合でも、メタファーとしてクジラを奉っていくというやり方が容易に力を持ってしまうということが20世紀後半の世相の潮流の中で注目すべき点ではないかと思います。


 実は明日我々は土浦にて海上知明氏によるエコロジー思想に関する講演会(主催:アルバトロス・クラブ)を催すことになっているのですが、海上さんのお話を通じてこうした潮流の源にあるものが何なのかといったことが見えればよいなと思っています。環境思想というものは別に目新しいものではなく、人間が自然を対象物として見なした上で生きている限り存在するものであり、それは何も西欧に特有の思想ではないと思うのですが、一方では現代のエコロジー思想というものの根っ子は全て西欧にあるようにも思えます。しかもそれらは近代ヨーロッパが確立されていく過程において副次的に生まれてきたような気がするわけですが、海上さんは西欧思想の様々な潮流を分類しながら、個々のエコロジー思想のルーツをたどろうとされています。こうした作業を経る中でエコロジー思想自体も丁寧に再分類され、捕鯨論争の中で飛び交う様々な言説の由来をも知ることが出来るのではないかと期待しています。


 僕が捕鯨問題に関心を持つようになったのは学生時代から関わり続けてきた熊野へのアプローチがきっかけでした。熊野というのは紀伊半島南部のことなのですが、山また山の果てに広大な太平洋が広がるという土地柄ゆえ、そこは稲作に適したところではありません。かつて米の自由化ということが日米間で大きな問題となっていた頃に、日本は伝統的な稲作国であり、米は日本人の食文化において非常に重要なものだという主張をよく耳にしました。勿論、それは決して間違いではないのですが、日本人が米を食生活の中心に置くようになったのは比較的近世のことなのですね。特に熊野のような土地では稲作や米食が原風景とは言いがたいのではないかと思います。


 つまり、日本の食文化には意外に多様性があり、それはそれぞれの地域の風土によって左右されている面が大きいわけです。当然のことながら熊野は米よりも山海の幸に食生活を委ねてきたわけですが、そうした海の幸の中で最大の蛋白供給源がクジラであるわけで、太地を中心とする熊野の南方では随分昔から捕鯨が行われてきたわけですね。


 捕鯨はかつて日本の各地で行われていたのですが、それが一つの産業、つまり捕鯨業として成立してきたのは江戸時代になってからのことです。太地浦の和田角右衛門という人が網取式の捕鯨法を開発したことにより、捕鯨は集団による組織的なものとなり、また従来の銛突式の捕鯨と比べると比較的安全なものになりました。また、船団を組んで行うという捕鯨が完成したことにより、村の中には捕鯨業を軸としたヒエラルキーができ、捕獲したクジラを解体、加工、販売するための産業、あるいは捕鯨業を支える漁具などを作る工業が生まれてきます。そんなふうに、クジラを中心に形作られたコミュニティーがかつての太地にはありました。


 江戸時代には太地の鯨捕りたちは帯刀を許されていたと言いますので、士分に準ずる身分を与えられていたことになるわけですが、それだけに捕鯨は誇り高い生業とされていました。ところが、江戸時代の後半になると日本近海にやって来るクジラの数が激減してしまいます。皆さんも『白鯨』という小説をお読みになったことがあると思いますが、当時アメリカが北太平洋において大量にクジラを捕獲していたのですね。彼らの捕鯨は燃料油である鯨油を得るためのものでしたが、ペリーが浦賀にやって来たのも日本近海までやってくる米捕鯨船に水や食料を供給させることが目的であり、その結果として日本は開国させられたわけです。それが黒船の趣旨であったことを思い起こしていただくと、いかに当時のアメリカにとって捕鯨というものが重要であったかということがわかりますが、彼らの乱獲のあおりを受けて、太地ではクジラが捕れなくなっていたのです。


 やがて明治時代になりましたが、太地の鯨漁は相変わらず不漁続きで、このままではもう正月も迎えられないという年の暮れに二頭のセミクジラが太地沖を泳いでいました。日本の伝統的な猟・漁の文化には獲物を生態系の一部として人間と同じ円環の上に置く見方がありますが、太地でも捕獲したクジラに対しては一頭一頭に戒名が与えられて、お寺で供養がなされるなど、そうした考えが強く浸透していました。


 太地には「セミの子連れは夢にも見るな」と言葉があるのですが、これは哺乳類であるクジラの母子を襲うということは罪深いことであるという考えや、我が子を守るために必死になった母クジラは危険であるという考え、また授乳中の母クジラを捕獲してしまうと子クジラは死ぬしかないのでクジラ資源を無駄にしてしまうという考えが入り混じったものだと思います。ところが、こうした禁を破って太地の鯨捕りたちはそのセミクジラを追いかけてしまったのです。これはそれくらいひどく村が追い詰められていたということなのですが、その結果セミクジラは大暴れをし、最終的に太地の鯨組する壊滅するはめに陥りました。


 さて、そこからが熊野の海人たちの痛快なところなのですが、彼らは大阪あたりに出稼ぎに行くといったことは考えず、思いきって眼前に広がる太平洋の向こう側まで出かけて行くことで活路を見出そうとしたのです。つまり太地の鯨組の人々は組を解体してアメリカやオーストラリアにあっさりと移住してしまったのです。特に彼らが集中的に進出したのがサンペトロなのですが、農業移民の多かった日本の移民史において、捕鯨や真珠採りのために海外に出て行った熊野の人々の移民というのは際立っているように思います。太地には海外で財をなしてから帰国した人の例が多いのですが、太地にはもともと捕鯨業を中心とした加工・販売業が確立しており、そうした中で彼らが培ってきた商工業の才覚を発揮したことによるのではないかと思います。


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