拓海広志「鯨の向こうに見えるもの(1)」
これは今から15年くらい前に書いた文章ですが、よかったらお読みください。
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僕は神戸市の舞子という、明石海峡に臨む街で生まれ育った。かつての舞子浜は美しく、海峡を流れる潮は早かったが、腕白時代の僕たちにとっては最高のフィールドであった。中学生の頃だったと思うが、僕は砂浜に寝転んで波の音に耳を傾けながら、ふと思った−「浜辺に打ち寄せる 波は、陸に上がってしまった生物たちを連れ戻そうとする海の触手に違いない」と・・・。
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個体発生は系統発生を繰り返すと言われるが、胎児は母親の胎内で過ごす十月十日の間に、羊水の海を漂いながら、人類の歴史を一通りたどってくる。その間に胎児は様々な夢を見、祖先たちの海から大地への上陸の際の痛みなども知ったことだろう。精神分析学の術語に「胎内回帰願望」なるものがあるが、それを俄には信じられぬ僕であっても、僕たちの心の奥底に潜む「海」への回帰願望については否定できないような気がする。
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大隅清治さんの『クジラは昔、陸を歩いていた』によれば、クジラの起源を探ると白亜紀末(約6500万年前)の古地中海の南西部に注ぐ川の河口部に生息していたメソニックスという肉食性哺乳類にたどり着くそうだ。メソニックスはネズミ程度の大きさの動物だったそうで、彼らからウシやウマなどの偶蹄類も枝分かれしていったのだが、何故か彼らのうちの一部は突如として海に戻ってしまったのである。
肉食だった彼らが、草食の偶蹄類になるか、それとも魚を追って海に戻るかの二者択一を迫られた時のドラマに僕は思いをはせるのだが、後者の思い切りの良さは羨ましいほどだ。人間がクジラに対して様々な思いを抱くのは、一つには彼らに対する羨望があるからではなかろうか?
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日本丸で太平洋を航海していた頃の話だが、夜の航海当直時に満天の星空の下、たった一人で船首に立って見張りをしている時というのは、何とも言えず幻想的な気分になるものだ。そんな夜にはどこからともなくイルカがあらわれて船に沿って泳ぎ始める。そして「クゥックゥッ、クゥー、クルルゥー」と不思議な声で歌うのである。僕はイルカの姿態と歌声が醸し出す、エロスを超えたセクシーさに魅せられていき、イルカをめぐるショートストーリーを書いてみた。
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「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生を厳しく見た人ではない」。
「道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈だけである」。
「全ての民族は特有の偽善を持っており、それをおのれの美徳と称する」。
「人はまず悪い敵を、すなわち悪人を考想する。そしてこれを基礎概念として、さらにもう一人の善人を案出するが、これこそが自分自身なのだ」。
「正義の精神において占領された最後の地域は、反動感情の地域であった」。
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新宿歌舞伎町の真ん中に「樽一」という名の居酒屋がある。この店のオーナーである佐藤孝さんは宮城県出身なのだが、宮城直送の旨い魚と銘酒「浦霞」、そして研究熱心な佐藤氏が生み出した鯨料理の数々が「樽一」の売り物だ。「樽一」の鯨料理にはクジラの体のあらゆる部位が使われており、その中には日本各地で伝統的に調理されてきた方法もあれば、佐藤氏の独創もある。そして、僕は「樽一」の鯨料理を食しながら、これだけ丹念にその素材を活かした様々な料理を考えてきた日本人のクジラとの付き合い方の奥深さを思うのである。
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和歌山県の太地町は古来「捕鯨の町」として有名なところだ。同町にある「くじらの博物館」で館長を務める北洋司さんは、かつて網取式捕鯨時代に代々羽刺役を務めてきた背古氏の末裔である。縄文文化圏とも言われる熊野地方の中でも、太地は特にその色を濃く残しているところであり、狩猟採集文化の伝統を今に伝える地だと、北さんは語る。
日米間で日本のコメ輸入自由化が問題となってから久しいが、「食糧安保論」とか、産業保護政策の一つとしての「農業保護論」とは別に、コメ作りは日本の重要な伝統文化であり、水田は日本人にとっての原風景なので、それらを守らねばならないという、いわば「文化防衛論」的な主張が日本国内にあることは周知の通りだ。
勿論、それにはそれなりの根拠があるのだが、コメが五穀の中で特別な意味を有するようになったのは江戸時代になってからのことだし、熊野のように山また山の果てに海といった土地に住む人々はコメ作りとはあまり縁はなく、むしろそこでは山での狩猟や海での漁労などが原風景であり続けた筈で、太地の場合は捕鯨と漁業こそが原風景であったろう。
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クジラが哺乳類であることについては、日本でも1760年に書かれた『鯨志』という書物にそのように記されており、そういう認識は古くからあったようだが、他方、クジラにつけられた「勇魚(いさな)」という呼び名、あるいは「鯨」という字自体からも、日本人がクジラを偉大な魚として位置づけてきたことは明らかである。
また、クジラが魚を入江に追い込んでくれるという理由から「恵比須」として神格化したり、逆に捕鯨業が一般の漁業から分離した後には、クジラの解体場から海に流れ出る血のために魚が浜に寄りつかなくなるとして、一般漁業民と捕鯨者が対立した例があるなど、日本の捕鯨には漁業との関係において興味深い話が多いようだ。
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熊野には徐福が捕鯨技術を伝えたとする伝承もあるが、実際には海岸に打ち上げられた「寄り鯨」を海の恵みとして得るという程度の受動的な時代が長く続いた筈だ。
日本の古式捕鯨は「弓取法」「突捕法」の時代を経て(インドネシアのレンバタ島では、今でも槍を使った「突捕法」による捕鯨が行われている)、17世紀半ばに太地鯨方網元の和田角右衛門頼治が「網捕法」を考案するに至って大きな進歩を遂げたが、これによって捕鯨業は当時の一大産業にのし上がったのである。
江戸時代には鯨捕りは漁師の中でも最高位とされ、太地の少年たちは何よりも鯨方に加わることに憧れたというが、この気分は南氷洋捕鯨の時代になっても受け継がれていたようである。
他方、捕鯨業が一つの産業として成立したということは、鯨の捕獲だけではなく、鯨肉の解体、加工、流通などを通じて様々な周辺産業を生み出し、鯨の「食文化」ないしはそれをめぐる「周辺文化」を創出することになった。かくて、これといった産業のなかった辺境の地・太地は鯨を中心とした独特のコミュニティーを作り上げていったのである。
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太地の町をぶらりと歩いてみると、鯨と関わりのあるもので溢れていて実に興味深いが、何気なく家々の表札を眺めてみても、「背古」、「海野」、「漁野」、「筋野」、「遠見」、「汐見」、「油谷」などといった捕鯨に関わる苗字が多いことにすぐ気がつく。
そんな町の中に東明寺という寺があるのだが、そこには鯨供養碑が立てられており、鯨の過去帳も残されている。太地の鯨捕りによって捕獲されたクジラには戒名が贈られ、この寺で人間と同等に扱われて供養されるのである。
このような観念は何もクジラに限らず、日本の狩猟文化に共通するものだが、そのルーツはアイヌの熊送りの儀式などに見ることができる。
それは神が熊の姿を借りてこの世に姿をあらわし、人間の食を与えてくれるのだというふうに自然を解釈し、その恵みに対して感謝をしながら熊の肉を食し、その魂を送るという儀式なのだが、これは日本人の自然観・動物観の基層をなす観念だと言えるだろう。
そして、それに仏教的な輪廻転生の死生観が加わることによって、日本人は自然の中で人間と動物を同心円上に置くという自然観を作り上げていったのである。このあたりは人間と動物、文明と自然を二項対立的にとらえてきた近代西欧の思想とは異なるところだ。
動物を支配する「人間」、自然の力をも支配する「文明」というものを信奉してきた西欧人が、その行き過ぎによる弊害に気付いた時に「エコロジー」なる思想が生まれてきたわけで、「自然保護」という発想もまたこの二項対立概念を前提にしなければ生じ得ないものだろう。
ジャニス・へンケ女史は、その著書『あざらし戦争』の中で、自然から隔離された都市生活者が野生動物をペットのように擬人化して語るような自然保護運動は駄目だと語り、そうした人々の自然に対する無知と異文化に対する想像力の欠如が一部の自然保護団体の活動を支えているとして厳しく批判しているが、それとクジラに戒名を与えるような擬人化が本質的に異なるものであることは言うまでもない。
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