拓海広志「船と航海の歴史(3)」

 数年前に「オフィス☆海遊学舎」が主催した会で、僕は「船と航海の歴史」と題したお話をさせていただきました。その内容をここで少し紹介させていただこうと思います。


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 さて、1769年にグラスゴー大学のジェームズ・ワットが蒸気機関を発明すると、それは紡績機や織機の動力として使われるようになりました。これによってイギリスの織物工場経営は一挙に大型化し、産業革命に火がついたのですが、この革命は運輸の世界にも変革をもたらしました。陸上で初めて蒸気機関車が走ったのは1804年のことですが、水上でもそれを船の動力とすることに多くの人が挑みました。


 初期の蒸気船は船体の横に水かき車輪を取り付けた外輪船だったのですが、1807年にそれを使って営業的に成り立つ商船を初めて就航させたのはロバート・フルトンというアメリカ人で、それはニューヨークとオルバニーを結ぶハドソン川の航路でした。


 しかし、19世紀の前半において蒸気船は川筋や沿岸の短い航路にしか使われず、外洋では帆船に補助的な蒸気機関と取り外しのできる水かき車輪を付けた帆前船が走っていました。そして、蒸気の力で走るタグボートが大型船の入出港を助けることができるようになったため、帆前船は外洋での航行性能だけを考えて建造すればよくなり、大型化と高速化が進んだのです。こうして誕生したのがクリッパーと呼ばれる船なのですが、現存するクリッパーとしては、グリニッジで海事博物館として保存されている「カティ・サーク」がよく知られています。


 クリッパーは帆船時代の最後を飾るにふさわしい完成度の高い船で、快速を誇りました。中国で取れた一番茶をイギリスまで運ぶ際には複数の船が航海に要する日数を競い合い、それが賭けの対象にもなったため、ティー・クリッパーという呼称も生まれました。もっとも当時のイギリスは茶の輸入を中国だけに頼っていたために貿易赤字が大きくなり、やがて不足してきた銀の替わりにインド産のアヘンで茶の代金を支払いはじめたことが原因でアヘン戦争(1839〜1842年)にまで発展したのですから、クリッパー時代の貿易は必ずしもフェアなものとは言えませんでした。


 クリッパー全盛期にあっても、蒸気船は着実に技術的な進歩を続けていたのですが、1843年にはイギリス人技師のアイザムバード・K・ブルーネルが世界で初めての鉄製船体にスクリュー・プロペラを備えた外洋定期客船「グレート・ブリテン」を建造しました。さらに1858年には、全長207メートル、総トン数1万8914トン、5千人乗りの巨大客船「グレート・イースタン」を建造し、ブルーネルは世界の造船史に大きな足跡を残しましたが、両船ともに営業的に成功できなかったのは一歩先を歩んだ天才ゆえの悲劇でしょう。


 しかし、スクリュープロペラで走る鉄製の蒸気船が、フランス、イギリスを筆頭に、各国軍艦の標準仕様となるのにそう時間はかからず、クリミア戦争において木造艦からなるトルコ艦隊がロシア軍の砲火によって壊滅的な打撃を受けたことで、その流れは一気に加速しました。また、1869年にスエズ運河が開通するとイギリス−インド間の航程は従来の約半分に縮まり、石炭の補給基地のない東アフリカ沿岸をぐるりと周る必要がなくなったことから、帆船よりも航行スケジュールが確かな蒸気船は商船においても主流となっていったのです。


 アメリカ海軍においては「蒸気海軍の父」と呼ばれるペリーが早くから蒸気軍艦の増強を主張していたのですが、彼は1852年に東インド・中国・日本海域の司令官に就任し、日本遠征に乗り出します。アメリカの目的は、ジャパン・グラウンドと呼ばれる金華山沖などで鯨油を得るためにマッコウ鯨やセミ鯨を大量に捕獲していた自国の捕鯨船に対する水や食料の補給基地を設けることと、蒸気船による北太平洋航路の寄港地を開拓することでした。江戸時代の日本では、熊野の太地で考案された網捕り式の捕鯨法が各地に普及していたのですが、アメリ捕鯨船による乱獲のために日本近海の鯨の数は激減し、それが日本の伝統捕鯨が衰退する原因ともなったのですから皮肉な話です。


 1853年、ペリーの艦隊は浦賀に来航し、翌年にも江戸湾に侵入してきましたが、この間の交渉を経て日米間には和親条約が締結されました。また、1854年にはロシアのプチャーチンが長崎に来航し、日本はロシアとの間でも和親条約を結ばざるをえなくなりました。鎖国時代の終焉です。しかし、こうした事態を受けて1635年に布告された武家諸法度中のいわゆる「大船建造禁止令」は直ちに解除され、幕府はもちろんのこと、薩摩、水戸、加賀、肥前、長州、土佐の諸藩もそれぞれに蒸気軍艦と大砲の建造に取りかかったのですから、その反応の早さには驚かされます。


 続いて1858年に幕府はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結しました。幕府はその批准のために使節を米艦「ポーハタン」に乗せてアメリカへ送るのですが、その際に使節を護衛するという目的でオランダから購入した木造3本マストの汽船「咸臨丸」もアメリカへ向かうことになりました。その艦長は幕府海軍の創設者ともなった勝海舟です。


 「咸臨丸」は1854年に国旗として制定されたばかりの日章旗をマストに掲げ、意気揚々と出帆したのですが、同乗のアメリカ人船長ブルーク大尉らの助けを借りながらも無事にサンフランシスコまで渡り切りました。「咸臨丸」の乗組員の中には福沢諭吉もいたのですが、このときの見聞が勝や福沢の視野を拡げ、それが幕末から明治にかけての日本の行方に少なからぬ影響を与えたことは間違いないでしょう。


 近代の技術革新は目覚しいスピードで進みました。1876年にオットーがアルフォンス・ボー・ドゥ・ロッシャの原理を応用して石油や天然ガスを燃やして動力に変える4サイクル式の内燃機関の製作に成功し、ルドルフ・ディーゼルがそれをさらに進歩させた2サイクル式のディーゼル機関を生み出すと、それらは第一次世界大戦までの間に潜水艦や高速艇に普及していき、次いでその他の軍艦や一般の商船にも使われるようになってきたのです。ディーゼル機関の実用化と、石炭から石油へと移り変わったエネルギー革命によって、船はさらに大型化、高速化が進むことになりました。


 航空機、そして宇宙船が登場するまでの人類の長い交通の歴史において、船はいつも同時代における最先端のテクノロジーを集約した乗り物でしたが、しばしば戦争がその進歩を促してきたという事実から目を背けることはできません。


 第一次大戦時にドイツの潜水艦Uボートに苦渋をなめさせられたことから、第二次大戦に向けてイギリスやアメリカはソナーやレーダーの開発を進め、ドイツの方はレーダーに反射しない塗料を開発して潜水艦の船体に塗ったり、潜水艦の高速化を図るために動力として二次電池を使った潜水艦を開発したりしました。また、第二次大戦を通じて戦闘機の重要度が増し、動く基地である航空母艦が艦隊の主軸になったのも特筆すべきことでしょう。


 こうした軍事目的での船の技術の進歩は第二次大戦後も続いています。1959年にイギリスが開発したエアクッション船のホーヴァークラフトもその一つですが、この船はガス・タービンを動力とし、空気プロペラか空気ジェットで推進力を生み出すと同時に、エアクッションで船体を浮かして走ることによって水陸両用に使うことができます。


 また、アメリカは1954年に世界最初の原子力船である潜水艦「ノーチラス」を進水させましたが、原子炉は酸素を必要とせず、排気ガスも出さず、かつ長期間にわたる作動が可能であることから、潜水艦の動力として広く使われるようになりました。


 これらの技術革新は商船や漁船にも影響を与え、ホーヴァ−クラフトや原子力船は既に商船としても使われています。また、ソナーやレーダーはもちろん、アメリカ軍によって開発された人工衛星を利用した位置測定システムのNNSS(Navy Navigation Satellite System)やGPS(Global Positioning System)すら、今では商船や漁船の基本装備となっています。


 21世紀にはどのような船が世界の海を走るようになるのか楽しみですが、いかにテクノロジーが進もうとも、先史時代から今日までの先人たちが海という大自然に対して抱いていた謙虚さが不可欠であることだけは変わらないと思います。また、人が海を渡る手段も、船から航空機へと移り変わりましたが、世界各地の異文化と出会い、互いの価値観の相違を尊重し合いながら、交わっていくことの素晴らしさはいつも同じだと思います。


 さて、かなり駆け足でしたが、原始時代から今日に至るまでの船と航海の歴史の概略についてお話させていただきました。人類史において船とはどういう存在であったのか? また、船で海を渡る「航海」が人類にもたらしたものは何だったのか? 皆さんが今日の話を元にして、そんなことを考えてくださると、とても嬉しいです。今日はどうもありがとうございました。


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