拓海広志「初めてのヤップ(1)」

 アルバトロス・クラブが発足してからまだ間もない1989年の初夏に、僕は岡山県高梁市の医師・野村勲さん(岡山ヤップ会)宅で、ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島から来日中だったベルナルド・ガアヤンさん、ジョン・タマグヨロンさんと出会った。彼らはヤップに伝わるシングルアウトリガーカヌーの建造術と航海術を再現したいという思いから「ペサウ」という名のカヌーを建造し、1986年にヤップ〜小笠原父島間の航海を成功させた人たちだ。


 学生時代から太平洋のカヌー建造・航海術に興味を持っていた僕と彼らの話は弾み、二人と別れた後も僕はカヌーについての情報収集と研究を続けた。そして、翌1990年の6月末、僕は彼らと再会するためにヤップを訪問した。これは極私的な旅だったが、結果的にはこの訪問を契機として「アルバトロスプロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)」が発足へ向けて動き出すこととなる。このときの旅の話を、当時の日記からの抜粋で紹介したい。


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※6月23日

 スポーツバッグにテントと寝袋、着替えのTシャツと下着を少々詰め込み、神戸から名古屋空港へ向かう。ミクロネシアの旅に利用するコンチネンタル・ミクロネシア航空機は、今のところ大阪発着便がないのだ。
 今回の旅に持参した本は、大内青琥さんの『おじいさんのはじめての航海』と、須藤健一さんの『母系社会の構造』。いずれも僕は何度か読み返したことのある本で、『おじいさんのはじめての航海』にはガアヤンのカヌー「ぺサウ」によるヤップから小笠原父島までの航海のことが書かれてある。
 読書にのめりこんでいるうちに気がついたら飛行機はグアムに着いていた。もう真夜中過ぎだ。トランジットの手続きを終え、空港内のバーでビールを飲んでいると、産経新聞の記者を名乗る人が話しかけてきた。
 僕はいつも特定の新聞を継続して定期購読することはせず、3ヶ月おきに違う新聞を取るようにしているのだが、この4〜6月は産経新聞の番だった。同紙はペルーのフジモリ氏が大統領に選ばれた際に「世界初の日系人大統領誕生」と報じていたが、実はミクロネシア連邦のトシオ・ナカヤマ前大統領も父親は日本人である(母親はトラック諸島のデュブロン島出身)。
「日本人の多くは韓国や中国、台湾に対しては隣国という意識があるし、北南米やオーストラリアの日系人についてはその存在を知っているけど、海を隔てた南の隣国ミクロネシアについては意識が希薄なようですね」と僕が言うと、記者氏も「同感です」と言った。


※6月24日

 グアム空港内の待合室のベンチに座って仮眠していると、早口のアナウンスが聞こえた。早朝発のヤップ・パラオ行きフライトが、大雨を伴う悪天のために欠航になったというのだ。「天候が回復次第、臨時便を飛ばすので、それまではグアムでのんびりしなさい」とのお達しだったので、おとなしくそれに従うことにした。
 僕はタモン湾に面した安宿にチェックインして近所を散歩したのだが、このエリアにはリゾートホテル群とカタカナ書きの看板を掲げたカラオケスナックやポルノショップ、そして土産物店が乱立しており、あまり心地よくなれない。町をうろついているのは日本・韓国・台湾からの団体客ばかりだ。
 ミクロネシアの人々の立場から見た場合、グアムは決して成功した島とは言えぬだろう。確かに島には物資が満ち溢れ、物質的には豊かになった人も多い。しかし、基地やリゾート用地として米軍や外国資本に売り渡した土地は、再びチャモロ族の人々の手に戻ってくることはなく、島は既に彼らのものとは言えない。
 島の要職に就いている人や、島で大きなホテルやレストラン、商店を経営している人の中にチャモロ族は少なく、かつて貢物を持参せずに島を訪れたマゼラン(マガリャンイス)の船を丸木舟で襲い、ヨーロッパ全土に「泥棒島」という不名誉な名を轟かせた勇猛な男達は一体どこへ消えてしまったのだろうか。
 米国領のグアムを除いたミクロネシアは、ヤップ、トラック、ポナペ、クサイエなどからなるミクロネシア連邦、そしてパラオ諸島を中心としたパラオ共和国サイパン、ティニアン、ロタなどからなる北マリアナ連邦、ビキニ、クエゼリン、エネウェトク、マジュロなどからなるマーシャル諸島共和国で構成される。
 グアムの二の舞は踏まぬよう、政治的にも経済的にも独立することを目指すミクロネシア連邦。世界初の非核憲法国民投票で決めたものの、政治的に不安定な要因の多いパラオ共和国。他方、準グアム化することを自ら選んだ北マリアナ連邦。また、米軍の核実験で破壊され、米国の庇護を受けながら生き延びるしか道のないマーシャル諸島共和国。国づくりの始まったばかりのミクロネシア4ヶ国・地域であるが(北マリアナ連邦は国ではない)、四者四様に難問を抱えている。
 そんな中でミクロネシア連邦のヤップ島はリゾート開発に対してまだ積極的でなく、「変わり者揃い」と陰口を叩かれながらも独自の文化を保とうとしてきた。自分たちの文化への誇りが彼らに安易なリゾート島化を許さなかったわけだが、徐々に市場経済体制内に組み込まれつつあるヤップが現金収入獲得の手段として観光資源や水産資源を本格的に利用し始めるのは時間の問題だろう。
 極めて困難な問題ではあるが、伝統的文化や美しい自然を保ちながら観光開発を進めることが出来るかどうか? 日本と世界の各地で、リゾート開発などによって美しい自然が破壊されていくさまを多く見てきた僕としては、企業が即物的発想でミクロネシアの島々を荒らしまわるのではなく、住民の文化や生活、未来について真剣に考えながら進出することを願っている。
 その夜、僕はひょんなことから某建設会社の会長夫妻と知り合いになった。会社の慰安旅行でグアムにやって来たそうで、社員たちよりも一足先に着いたのだという。僕はお二人と夕食を共にしながら、建設業界の近況について様々なことを教えていただいた。日本はバブル経済真っ只中で、建設業界もそれに激しく翻弄されているようだ。
「泡のお金ではなく、石のお金を求めて・・・」−ふと、そんな旅のキャッチフレーズが浮かんできた(笑)。


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