拓海広志「初めてのヤップ(6)」

 アルバトロス・クラブが発足してからまだ間もない1989年の初夏に、僕は岡山県高梁市の医師・野村勲さん(岡山ヤップ会)宅で、ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島から来日中だったベルナルド・ガアヤンさん、ジョン・タマグヨロンさんと出会った。彼らはヤップに伝わるシングルアウトリガーカヌーの建造術と航海術を再現したいという思いから「ペサウ」という名のカヌーを建造し、1986年にヤップ〜小笠原父島間の航海を成功させた人たちだ。


 学生時代から太平洋のカヌー建造・航海術に興味を持っていた僕と彼らの話は弾み、二人と別れた後も僕はカヌーについての情報収集と研究を続けた。そして、翌1990年の6月末、僕は彼らと再会するためにヤップを訪問した。これは極私的な旅だったが、結果的にはこの訪問を契機として「アルバトロスプロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)」が発足へ向けて動き出すこととなる。このときの旅の話を、当時の日記からの抜粋で紹介したい。


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※6月28日

 今日はウォネッヂで暮らす最後の日だ。朝起きた時から帰りたくない気持ちが湧いてきて困った。この日、僕は名残を惜しむようにガアヤンと様々な話をした。カヌーのこと、ヤップのこと、ミクロネシアのこと、戦争のこと、日本のこと・・・。僕も聞いたし、ガアヤンも語った。そして、そんな会話の中で僕はガアヤンという人の大きさを再認識していった。余談だが、「ガアヤン」という名前は「寛大な心」を意味するそうだ。

 正午前頃にタマンがもう一度柔道をやろうと言うので、浜に出てしばらく彼の相手をしてやった。それからガアヤンの孫のマウと一緒に隣村のディンギンまでビールとウォッカを買いに出かけることにした。これはささやかだが、僕からガアヤンへのお返しの気持ちだ。

 ディンギンからの帰り道で激しいシャワーに襲われ、僕とマウはびしょびしょに濡れてしまった。この日はそれからずっと曇り空が続いたが、夕方になってようやく晴れ間が見えてきた。ガアヤンと話をしながら待っていると、タマグがいつものように正装のスー(ふんどし)だけを身につけてやって来た。さらに、タマグの奥さん(ガアヤンの姪)と孫もやって来た。

「コンバンハ。ショクジガオワッタラ、ボウオドリヲヤリマショウ」

 ガアヤンとタマグという二人の酋長に囲まれての最後の晩餐だ。おかずは豚とパパイヤを煮込んだものにセプチ(パンの実をココナツミルクで炊いたもの)である。野菜を食べる習慣のないヤップの人々にとって、果実に含まれるビタミンや繊維は重要なものなのだろう。

 やがて食事が終わると、待望の棒踊りが披露されることになった。本当は数十名で演じなければならないのだが、今夜は急な話だったので家族だけで演じるため、4人しかいなくて申し訳ないとガアヤンとタマグが言うが、僕にとっては彼らの優しい気持ちが何よりも嬉しい。

 ガアヤンの孫娘がウォンと呼ばれるハイビスカスの繊維やバナナの葉で作られた腰蓑を身につける。2人の少年とタマンは青色のスーだけだ。4人はそれぞれに竹の棒を持つと歌を歌いながら踊り始めた。タマグの奥さんやリヌグも周りで一緒に手拍子をして歌う。淡い月光の下で展開される踊りは何とも言えず幻想的だった。

 棒踊りを楽しんだ後、僕はガアヤン、タマグ、フェティックと共に、ガアヤンの雑貨屋の中でかなり遅くまで語り合った。ビールはどんどん空になり、ウォッカもあっという間になくなってしまった。僕は「ペサウ」の航海について、昨年高梁の野村勲さん宅で聞いたときよりもかなりじっくりと聞いた。

 放浪画家・大内青琥さんの著作などに詳しく書かれているが、ガアヤンは生まれた時から一度も帆走カヌーによる遠洋航海を体験したことはなかった。日本の統治時代に帆走カヌーでの航海が禁じられたことも理由の一つだが、スペイン人がミクロネシア人の大虐殺を行って以来、ミクロネシアでは優秀な航海者の数は激減してしまったのだ。

 ただ、ガアヤンの記憶の中には、幼い頃に古老たちから口伝で受け継いだ航海術の知識が残っていた。また、彼の体内には偉大な航海者だった先祖たちの血が脈々と流れており、その記憶が無意識の底に眠っていたのである。それがガアヤンを「ぺサウ」での航海へと駆り立てた。ガアヤンはヤップから美しい自然や伝統文化が急速に失われていくことを強く嘆いていた。そして、自分たちの文化や生活の根源でもある大型帆走カヌーの建造・航海という大仕事に取り掛かったのだ。

 ヤップ離島のサタワルなどではまだ生活必需品として帆走カヌーが用いられており、高度な航海術も残されている。そして、この貴重な文化を守るため、サタワル島民による実証航海(「チェチェメニ」によるサタワル〜沖縄航海、「ホクレア」によるハワイ〜タヒチ航海など)も何度か行われている。それらと比べると、ガアヤンの航海は正に手探りのチャレンジであり、悪く言うと「老人のあがき」と言えなくもない。だが、この老人のこだわりとあがきは、僕を強く惹きつける。

 大内さん曰く、「この航海は、知恵や技術の記憶の断片、ほんのわずかなかけらをいとおしみ、夕映えの砂浜へかがみ込んで拾い集めて、亡びゆく懐かしい島の暮らしを惜しむところから始まっているのだ」。サタワル島民の実証航海とガアヤンの冒険航海は同じ次元で見るべきものではないだろう。しかし、それでも現存する世界最大級のシングルアウトリガーカヌーを建造し、星と海流、波とうねり、風だけを頼りにグアムまでたどり着いたガアヤンは大したものだ(グアム〜小笠原間では、「ぺサウ」は伴走船に牽引されたそうだ)。

 ガアヤンとタマグは自分たちの文化が日本の基層文化と深いつながりを持つことを確信している。ガアヤンは7回、タマグは4回の来日を果たしており、そうした経験を通してそう思うようになったようだ。

 ガアヤンが言った。「ヒロシさん、ヤップ人と日本人の一部はもともと同じ民族だったんじゃないですか? 私たちは残念ながらそう感じるだけで、それを証明できません。でも、日本人ならば出来るはずです。是非、それを調べてみてください」

 思わず、「僕は人類学者じゃないんですよ」という言葉が出そうになったが、ガアヤンの「ヒロシさんは明日が早いから」という一言で宴が終わるまでの間、僕らは実によく飲み、よく語った。

 タマグは今夜はガアヤンの家に泊まり、明朝僕を見送ってからバチュアルに戻るよと言った。南国の夜は更け、僕は椰子の葉葺きの心地よい小屋での最後の夜を迎えた。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【サタワル島出身の航海者ルイス・レッパンさん。「チェチェメニ」の船長としてサタワル〜沖縄間の航海を率いた。僕らがアルバトロス・クラブのカヌー「ムソウマル」でヤップ〜パラオ間の石貨交易の再現航海を行った際、船長候補として最初に名前が挙がったのもレッパンさんだった】



【サタワル島出身の航海者マウ・ピアイルッグさん(向かって右)。「ホクレア」の船長としてハワイ〜タヒチ間の航海を率いた。僕らがアルバトロス・クラブのカヌー「ムソウマル」でヤップ〜パラオ間の石貨交易の再現航海を行った際、船長として「ムソウマル」を率いてくれたのもピアイルッグさんである】


ヤップの島の物語

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