拓海広志「初めてのヤップ(2)」

 アルバトロス・クラブが発足してからまだ間もない1989年の初夏に、僕は岡山県高梁市の医師・野村勲さん(岡山ヤップ会)宅で、ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島から来日中だったベルナルド・ガアヤンさん、ジョン・タマグヨロンさんと出会った。彼らはヤップに伝わるシングルアウトリガーカヌーの建造術と航海術を再現したいという思いから「ペサウ」という名のカヌーを建造し、1986年にヤップ〜小笠原父島間の航海を成功させた人たちだ。


 学生時代から太平洋のカヌー建造・航海術に興味を持っていた僕と彼らの話は弾み、二人と別れた後も僕はカヌーについての情報収集と研究を続けた。そして、翌1990年の6月末、僕は彼らと再会するためにヤップを訪問した。これは極私的な旅だったが、結果的にはこの訪問を契機として「アルバトロスプロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)」が発足へ向けて動き出すこととなる。このときの旅の話を、当時の日記からの抜粋で紹介したい。


  *  *  *  *  *  *  *


※6月25日

 15時、ようやくヤップ経由パラオ行きの臨時便が出た。グアムからヤップまでのフライトは約1時間。機内に置いてある雑誌を読んでいるとすぐに着いてしまう。ヤップ空港は数年前までは椰子の葉葺きの小屋と短い滑走路が1本あるだけの簡単なものだったそうだが、今は一応コンクリート製の建物と立派な滑走路がある。
 10数名の入国者の中に日本人が2人いたので話しかけてみたところ、1人はマグロの買い付けにやってきた沖縄の水産会社の社長で、もう1人はその漁の指導をするために来た漁師だった。「コロニア(ミクロネシア連邦ヤップ州の州都)の漁港に船を泊めているから、よかったら見においで」と言っていただいた。
 ヤップはヤップ本島、トミール・ガギル、マープ、ルムンという主要4島からなり、空港や港は州都コロニアのあるヤップ本島にある。ガアヤンやタマグの住むマープ島までは空港から車で約1時間かかるのだが、空港にはタクシーなどは見当たらず、コロニアに3軒ほどあるホテルのマイクロバスが宿泊客の送迎に来ているのみだ。
 空港に着いた僕がまずやらねばならぬことは、誰かマープまで連れて行ってくれる人を見つけ出すことなのだが、幸い僕はガアヤンの息子バナフィスが空港税関で働いていると聞いていたので、彼を探し出してマープまで連れて行ってくれないかと頼んでみた。
 ミクロネシア人には日本人と同じくらいの体躯の人が多いが、バナフィスはポリネシア人並みの大男だった。いきなり話しかけていった僕に最初は戸惑っていたが、ガアヤンやタマグと高梁で出会ったことなどを話すと納得してくれ、「よし、すぐに車に乗ってくれ」と言った。
 ヤップは他のミクロネシアの島々の多くと同様に、約400年にわたってスペイン、ドイツ、日本の支配、そしてアメリカの管理を受けてきた。「発見された」彼らが、スペイン人によるキリスト教の押し付けに従わなかったために大虐殺されたところから、彼らの歴史は欧米や日本の学校の教科書に登場するわけだが、そこに記載されているのは「ヨーロッパ人による大航海時代の冒険物語」だけである。
 また、日本の軍政時代、大日本帝国南洋庁という役所を設置してミクロネシアを統治し、徹底した日本語教育を行った。このため、ガアヤンら現在70歳以上の老人は日本語が達者なのである。日本が太平洋の捨石としたこれらの島々に対する戦後の賠償は実質的にはほとんどなされていないが、現在の日本人の一般的な世界認識や歴史認識の中から太平洋島嶼域のことが欠落しがちなのは恐ろしいことのように思える。
 そして、太平洋戦争後、国連信託統治の名の下に行われたアメリカのミクロネシア支配はズーセオリー(動物園理論)として国際世論から非難されたとおり、ミクロネシアに様々な無償援助をする代わりにミクロネシア全域を前線基地化するというものだった。これによって、日本統治時代に育成されていた産業の継続を断たれたミクロネシア連邦は、政治的には独立を宣言したものの、経済的な自立への道はまだまだ遠いものとなっている。
 戦後から現在に至るまでヤップの公用語は英語、通貨は米ドルとなっているため、僕はガアヤンやタマグと話すときは日本語を用い、バナフィスら若い世代との会話には英語を用いることになる。
 バナフィスの運転する軽トラックは空港からコロニアの市街を通り抜け、トミール地区からマープへと向かった。コロニアの市街地以外の道路は未舗装で、粘土分をかなり多く含んだ泥道だった。特に大雨が降った直後だけに路面の状態は悪く、車はスリップを繰り返し、坂道を登るときはクルクルと回りながら何とか上がって行くといった感じだった。
 しばらく行くと、1台の軽トラックとが追いついてきた。バナフィスは車を停めて、後続車の運転手と二言三言交わした。
「ヒロシ、俺はまだ税関の仕事が残っているので空港に戻らなくちゃならないんだ。ここにいる警官のタマンはマープに戻るところだから、そっちの車に移ってくれないか?」
 バナフィスがそう言うと、後続車のタマン警官が「ハウドゥユドゥー、ヒロシ? 俺がガアヤンのところまで案内するよ」と愛想よく笑った。
 かくて、僕はタマンの車に移ることになった。ヤップ本島とトミール・ガギル、マープの間は細い水路で隔てられており、昔は舟で渡ったそうだが、今は土を盛り上げて島と島の間をつなげている。陽気なタマン警官との話が弾むうちに、車はマープに入った。それからしばらく進むと、清らかな小川の手前で道は行き止まりになった。
「よし、降りてくれ。車はここまでだ」
 小川には人が1人歩けるほどの幅の狭い丸木橋があたかも車の進入を阻むかのように掛けられていた。僕はタマン警官に従って橋を渡り、椰子やマングローブなどの茂みとハイビスカスの花々に囲まれた美しい小径を歩んでいった。そして、しばらく歩くと小さな集落に到達した。
「ここがウォネッヂ。ガアヤンの村だよ」とタマンが言うのと同時に、僕の目に小屋の前の長椅子に腰掛けて夕涼みをするガアヤンの姿が映った。
「ガアヤンさん、お久しぶりです。突然押しかけてきて申し訳ありませんが、しばらく泊めていただけませんか?」
 手紙は出していたもののガアヤンからの返事がなかったので、少し不安だった僕はいきなりそう言った。ガアヤンは太平洋戦争中に痛めたという足を少し引きずりながら立ち上がって、僕の手を握った。
「あー、ヒロシさん。お手紙を拝見しましたよ。1年ぶりですね。よく来てくれました。どうぞ、好きなだけゆっくりしていってください」
 ガアヤンのあたたかい一言にホッとした僕は勧められるまま長椅子に腰を掛けた。
「それじゃあ、ヒロシ。また会おう」と言って陽気なタマン警官は去った。
「去年、高梁の野村先生のお宅でお会いして以来ですね?」とガアヤンが言った。ガアヤンは、ゆっくりと一つ一つ丁寧に言葉を選びながら話す。
 それからひとしきりカヌー談義で話が弾んだ頃、1人の少年がどこからか駆けてきた。そして、僕の姿を見つけると、戸惑いの表情を浮かべた。僕が「やあ」と言って微笑むと、彼は安心したのか少しはにかみながら笑った。赤いフンドシだけを身にまとった坊主頭の少年タマン。9歳の彼はガアヤンの孫だ。
「店の中に入りましょうか」
「店」と言われて何のことかと思ったら、トタン作りの小さな小屋のことだった。ここにガアヤンは棚を作って缶詰やインスタントラーメン、また蚊取り線香などの雑貨を売っているのだった。店の中には冷蔵庫と冷凍庫もあり、冷蔵庫には椰子の実が、冷凍庫には魚が入れてあった。ガアヤンは1日の大半をこの店で過ごし、夜も土間にゴザを敷いてその上で眠るのだという。
「夜遅くまで物を買いに来る人がいるのです」と言いながらガアヤンは裸電球の灯りを点けた。つい4年前にようやくマープまで引かれたばかりの電気である。
 ガアヤンによれば、ヤップ4島の総人口は約9千人。そのうち、マープ島には約600人が住んでいるという。マープだけでも11の村があり、それぞれの村には1人ずつピルン(pilung:酋長あるいは村長)がいるわけだが、ガアヤンはウォネッヂの前ピルンであり、現役中はマープ11ヶ村全体をまとめる総ピルンでもあった。ウォネッヂは海辺の静かな村で、総人口は約60名。現在のピルンはガアヤンの甥だという。
 ウォネッヂから15分ほど歩くと、タマグ・ヨロンさんがピルンを務めるバチュアルという村がある。ウォネッヂとバチュアルの間にはトルゥという村があるのだが、太平洋戦争の頃はここに大日本帝国ナガシマ隊が駐屯していたという。
 ナガシマ隊は主として岡山県出身の兵士で構成されており、兵士たちと島民たちの関係は比較的良好だったという。次々とミクロネシアの島々を陥落させた米軍はいよいよヤップへ攻め込もうとしたが、既に米軍の手中にあったヤップ離島ウルシーの人々が「ヤップには敢えて戦うほどの兵力はないからどうか攻めないでくれ」と嘆願したため、米軍はヤップを無視して沖縄へ直行したというのがガアヤンの話である。
 もちろん、米軍はウルシーの人々の嘆願もさることながら、さっさと沖縄を攻略し、広島・長崎で原爆実験を行って戦争を終わらせたかったはずで、その構想の中でヤップは通り過ぎても大丈夫だという判断を下したのだろう。何はともあれ、ヤップは戦火を浴びることなく終戦を迎えた。
 戦後、ヤップと日本の交流は、他のミクロネシア諸島と日本の関係がそうであったように、ほとんど皆無であった。賠償問題についても日本政府はミクロネシアの人々との直接交渉を受け付けず、僅かなお金を信託統治国の米国に預けてそのズーセオリー実現に協力しただけだ。このため、ミクロネシアの人々の日本に対する不信感はかなり高まっていたらしい。
 そんな中、ナガシマ隊の軍医だった野村勲さんはお世話になったヤップの人たちに恩返しをしようと様々な努力をしてこられたという。今、僕がこんな風に気軽にガアヤンを訪ねることが出来るのも、ヤップと日本の架け橋になってきた野村医師の存在があってのことである。
 顎鬚ともみ上げがくっついてしまったガアヤンの顔は、その大きなお腹と共に元ピルンの貫禄たっぷりだ。彼の威厳に満ちた表情は、自然に周りの人たちを心服させる力を持っているが、同時に奥深い優しさも伝わってくる。
 こんなことを書くとガアヤンには大変失礼だが、僕はウォネッヂでガアヤンに再会してから、初めての村に来ているはずなのに何故かそんな気がせず、まるで幼い頃を過ごした故郷に戻って来て懐かしい祖父と話しているように思えて仕方がなかった。
 僕の祖父は僕が幼い頃に亡くなっていたし、外航船の船員をしていた父とも僕はほとんど一緒に暮らすことがなく、幼い頃から祖父も父も僕のイメージの中にあったような気がする。そして、それは故郷である西神戸の町・舞子の浜から眺める海の彼方にあったようだ。舞子から毎日眺める海は何故か僕に「南の海の彼方」を連想させ、それに惹かれるままに僕は商船大学に進学したのだった。
 ガアヤンの奥さんであるリヌグがガアヤンと僕の夕食を運んできてくれた。サバを煮たものとパンの実に、バナナのフライである。
 通常、ヤップの人たちは1日に2食しか食事を摂らない。また、夕食は太陽が完全に沈んでしまってからしか食べないのが習慣だという。そして、男女は食事を同じ場所では食べないとか、一家の主(ここではもちろんガアヤン)は家族とは別の場所で食べるとか、様々な決まりごとがある。おじいさんっ子で「トゥトゥー(おじいさん)」とガアヤンに甘えてばかりいるタマン少年も、ガアヤンの食事中は店には入って来ない。
 ところで、ガアヤンはウォッカが大好きだ。僕の滞在中もほとんど朝から晩までずっと飲んでいたように思う。しかし、全く酔わず乱れず、75歳とは思えぬ強靭さにはほとほと感心した。
 やがて、フェティックという名のたくましい男が店にやって来た。頭には髷を結い、腰には褌を巻く、ヤップの正装を常に忘れないフェティックはリヌグの出身地であるマープ島パラオ村の男だ。僕が日本から持参したウォッカの1リットル瓶も、ガアヤンとフェティックにかかるとあっという間に空になってしまった。
 ガアヤンが僕を椰子の葉葺きの、しっかりした小屋に案内してくれた。大酋長が雑貨屋の土間で眠ることを思った僕は思わず辞退したが、「これはお客さん用だから遠慮はいりません」と言われ、好意に甘えることにした。
 小屋の真ん中には木製のベッドがあり、その上にマットが載せられていた。僕はそこに横になり、目を閉じた。ガアヤンにもらった蚊取り線香をつけてはみたが、熱帯の蚊はたくましく飛び回り、ひっきりなしに僕の手足を刺していく。ここにはマラリアデング熱はないからいいやと、僕は蚊を相手にせず風と波の音に耳を澄ますことにした。と、どこからか星の降る音が聞こえたような気がした。それはとても静かな南国の夜だった。


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