拓海広志「初めてのヤップ(4)」

 アルバトロス・クラブが発足してからまだ間もない1989年の初夏に、僕は岡山県高梁市の医師・野村勲さん(岡山ヤップ会)宅で、ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島から来日中だったベルナルド・ガアヤンさん、ジョン・タマグヨロンさんと出会った。彼らはヤップに伝わるシングルアウトリガーカヌーの建造術と航海術を再現したいという思いから「ペサウ」という名のカヌーを建造し、1986年にヤップ〜小笠原父島間の航海を成功させた人たちだ。


 学生時代から太平洋のカヌー建造・航海術に興味を持っていた僕と彼らの話は弾み、二人と別れた後も僕はカヌーについての情報収集と研究を続けた。そして、翌1990年の6月末、僕は彼らと再会するためにヤップを訪問した。これは極私的な旅だったが、結果的にはこの訪問を契機として「アルバトロスプロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)」が発足へ向けて動き出すこととなる。このときの旅の話を、当時の日記からの抜粋で紹介したい。


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6月26日(後編)

 浜には誰もいなかった。僕は浜に打ち上げられた流木に腰掛けて海を眺めた。約50メートル沖が珊瑚礁特有のエメラルドグリーンに輝き、島を包む環のようにずっと続いている。そして、視線を足下に戻したとき、白砂の中に黒砂が所々混じっているのを見て「おや?」と思った。

 不勉強を打ち明けることになるが、僕はヤップが火山島であることを知らずにここに来ていたのだ。しかし、浜の岩場などは明らかに火山の溶岩が海水で冷やされて固まったもので、僕はすぐにそのことに気づいた。

 ところで、島の海は島民全ての共有財産である。そこに住む魚貝類を捕らえる際も、勝手に行うわけにはいかない。島には資源管理のための厳しいルールがあるのだ。僕のようなよそ者が気をつけねばならないのは、派手に海を泳ぎまわったりして、漁を行う水域に入り込まぬようにすることだ。僕は遠浅の海を少し泳いでから、浮き身で波の上を漂ってみた。

 しばらくすると、4人の体格のよい若者と1人の少年が浜に姿を見せた。彼らは浜に置いてあった小舟を波打ち際まで押し出し、そこに潜水マスクと刈り取ったばかりの竹を数本、それに椰子の実などを積んでいた。少年の手がヤスを数本握りしめているのを見て、僕は彼らに尋ねた。「今から漁に出るところかい?」

「そうだよ。魚を突きに行くんだ。それと、高瀬貝も拾おうと思ってね」と、プロレスラーのマサ・斎藤にそっくりの男が言った。

「僕も連れて行ってくれないか?」

 男たちは互いに顔を見合わせた。そして、マサ・斎藤が答えた。「お前はガアヤンのところに泊まっている男だな。いいよ、連れて行ってやるよ」

「ありがとう」

 僕らは舟を沖まで押し出し、順々に乗り込んでいった。全員が乗り込むと船外機がセットされ、舟は走り出した。彼らは皆、ハワイやグアムの大学に通っている学生で(年齢的にはかなり老けたヤツもいたが・・・)、今は夏休みで帰郷しているらしい。

 ウォネッヂに住む若者たちの中にも、今では朝一番にコロニアの街に出かけて行って働き、夕方になると村に戻ってくるというサラリーマン的生活を送るものが増えているそうで、日中の村には老人と女、子どもの姿しか見られない。

 もちろん、自給自足でやっていけぬわけではないのだろうが、アメリカの信託統治下で身についたライフスタイルを維持するには、現金(米ドル)が必要なのだ。この帰郷中の留学生たちも卒業後はコロニアのエリート・サラリーマンとなるのだろう。

 舟がバチュアル沖の珊瑚礁まで来ると、エンジンが止められた。「あれがルムン島だよ」と、マープの隣に浮かぶ島を指差して誰かが言った。「島民以外の立ち入りを強く拒んでいる、妙な島さ」

 ルムン島のことは、ガアヤン宅に居候中の画家・大内青琥さんから以前いただいた手紙で、僕は知っていた。大内氏は「外国人立入禁止」という、この厳しい島のカヌーを譲り受けることが出来たそうで、「カヌーの修理が終わったらお祭りだ!」と手紙に書いていた。

 さて、若者たちと少年(モンガルフィという名の13歳。マサ・斎藤の息子だそうだ)が漁の準備に取り掛かった。魚を突く者はヤスを、高瀬貝を取る者はフロートにする竹の木を持って海に入った。僕も潜水マスクを一つ借りると、さっそく海に飛び込んだ。

 水深は約5〜7メートル程度だ。テーブル珊瑚が多いが、美しい。モンガルフィはまるで人魚のようにすばしっこく泳いでは、魚を突いていく。若者たちの方はコロニアの街で高く売れる高瀬貝の方がお目当てのようだ。

 しばらくすると、モンガルフィが「チョッと休まないか?」と言うので、僕は「Ok!」と応え、一緒に舟に上がった。モンガルフィがランチボックスの中からパンの実を蒸したものを出してくれたので、ありがたくいただく。そして持ち込んでいた椰子の実の口を開けて飲む。最高に美味い!

 僕があまり美味そうに飲み食いするものだから、彼はボックスの中から今度はタロイモを出してきた。そして、それにコプラを付けて食べて見せた。「タロとコプラは合うんだよ。試してご覧」−うん、確かに美味い。

 僕は「もし椰子の木がなければ、太平洋の島々に人が住めただろうか?」と、ふと考えてみる。暑さや潮気に強く、風雨に対してはしなやかさで耐え、成長の著しく早い椰子の木。その実は保存性に優れた水筒であり、長い航海でも椰子の実を幾つか持って行けば飲み水の心配はない。

 また、胚乳を乾燥させてコプラと呼ばれる状態にしたものからは、たっぷりと良質の油が取れる。ココナッツ・ミルクは滋養分に富んでおり、病人や妊婦には欠かせないものだし、様々な料理にも用いられる。

 しかし、それだけではない。椰子の実の繊維は椰子ロープの原料となるし、椰子の葉は住居の屋根や壁としても用いられるのだ。ガアヤンは「椰子こそは、神様が貧しい島民に与えてくれた最大の恵みだ」と語るが、その気持ちはよくわかる。

 しばらくすると、4人の若者たちも舟に戻ってきた。まずまずの収穫のようだ。マサ・斎藤が言った。「ヒロシ、刺身を食べないか?」

「それはありがたい。いただくよ」と僕が応えると、彼は突き取ったばかりの魚を1匹つまみあげ、ナイフで鱗と内臓を落としてから僕にくれた。僕はそいつを海水で洗うと、そのまま口に運んだ。「美味い!」

 それを見て、皆も魚を1匹ずと取って刺身にして食べ始めた。僕は舟の上で、なんとも心地の良い潮風に吹かれながら、水平線を眺めていた。


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【ガアヤンさんの雑貨店にて・・・】