拓海広志「カタフリ夜話(3)」
海の仲間が狭い船内で酒でも飲みながら、四方山話ならぬ四方海話にふけることを、船乗り言葉では「カタフリ」といいます。今回は今から8年ほど前に海の仲間たちと作っていたMLで交わしたやり取りの中から、僕が書いた部分を幾つか抜粋して紹介させていただこうと思います。
※題名:村おこしについて
Pさん wrote...「ところで、田舎でなにかしようと思って動けるのは、地元で生まれ育った人より、よそから移住してきた人たちだし、その移住者が何かすればするほど地元から浮いてしまうという現状が、自分にも、自分の周りにもあります。そんな中で、やりかけたことを貫こうとしたら、「地域のため」なんて思ってたらやっていられない。地元の人たちの「地域おこし」にかける思いはさまざまですが、地元は動かない、という現実は、大きく立ちはだかっています。なぜ、私は地元をうごかさなきゃならないのかな? 誰のために、何をやってるのかな? そんな疑問におそわれます。じゃ、何もしなきゃいいのに。それも、すっきりしません。というか、それなら、なんで私が「ここ」にいるのか、分からなくなってしまう。そんなことを感じてるのって、わたしだけなのでしょうか?」
Pさんがお感じになっていることは必ずしも地域社会だけで見られることではなく、会社などで働くサラリーマンでも同様のことを感じることは多々あると思います。この種のことは人間のコミュニティーではよくあることなので、Pさんの同志は至るところにいると思います。
僕は行動を起こす人間は「無私の私心」を持っていなければならないと思います。「無私」とは自らの欲望のために行動するのではなく、「公・共」のために働くということですが、それを一種の自己犠牲的な心持ちでやっていくのではなく、あくまでも「自分が好きだからやるのだ」という「私心」を大切にした方がよいでしょう。
ところで、グローバリゼーションとローカリゼーションに関する議論をする際に、人は「グローバル」という言葉から多様性を連想し、「ローカル」という言葉から均質性を連想しがちです。しかし、実際にはその逆のケースもあるわけで、ローカルにはローカルの多様さがあるのだと思います。だから、村おこしに対してもいろいろな考え方があってしかるべきですし、それはコミュニティーのあり方としてはむしろ健全なことではないでしょうか。
PさんがN村でどんなにご苦労されているのかよく知らないのに生意気なことを書いてしまいました。ごめんなさい。来月中には僕もN村を訪ねますので、その際にはじっくり話をしましょうね。
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
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