拓海広志「遠津川にて・・・」

 これは1999年に書かれた文章です。


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 かつて都からの遠さゆえに遠津川とも称されていた十津川は、吉野、高野の深山が蓄えた雨の雫を集め、深い峡谷の間を縫うようにしながら、やがて熊野川に合流して遥か太平洋の熊野灘を目指す流れとなる。険しい山道を抜ける十津川郷への旅は、昔は決して容易なものではなかった筈だが、それ故に都を落ちた貴人や武士、僧侶たちがそこへ逃げ込むといったことも少なくはなく、十津川郷は自然の厳しさ故に一種の治外法権地でもあった。


 しかも、十津川郷の痩せこけた土地は農業には全く適しておらず、各地で農民たちから過酷に年貢を取りたてた江戸幕府でさえも十津川郷については徴収を諦めていた。いわば幕府公認の貧村だったのである。それにもかかわらず十津川郷に住む人々の自意識は非常に高く、困難に耐えながら文武両道を磨き、それをもって自立し、公のために尽くすという気概に富む人を数多く輩出したという点においても、そこは稀有な村であったと言えよう。


 そんな十津川郷の人々を指して、十津川郷士と呼ぶことがある。年貢も納められない貧農が郷士とは妙だが、武士というもののあるべき姿を考えると、幕末から維新にかけて最も武士であったのは十津川郷士たちだったのかも知れない。明治時代に十津川は大氾濫を起こし、村は壊滅的な打撃を受けるのだが、 村人の多くは北海道に渡って土地を開拓し、そこを新十津川村と名づけた。 一方、十津川村に残った人々はかつての郷士としての気概を保ちつつ、その暮らしを守っていくことになる。


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 僕は十歳代の頃に日本の全都道府県を旅してまわったのだが、そんな中で、最も心惹かれた土地が熊野であった。僕が住んでいた神戸から熊野に至る道は幾つかあるが、奈良五条から十津川・熊野川沿いに新宮まで抜ける道は国道168号線となっている。


 アルバトロス・クラブが発足した1989年の某日、僕たちはカヤックを積んだ数台の車に分乗して国道168号線を走っていた。奥瀞から瀞峡、そして志古を経て新宮までの北山・熊野川下りを楽しむつもりだったのだ。僕にとってはもう何度も下った川である。車が十津川村の野尻という集落に入り、しばらく行った時である。後続の車に乗っていた人たちによると、先頭車を運転していた僕は突然急ブレーキを踏んで停車したと言うのだが、「ひさご」という名の民宿の前で僕たちは車を停めた。


 どうも僕には、個性的で美味しそうな料理屋を見つけると急に鼻がピクピクしてきて、衝動的にそこに飛び込んで行く習性があるようなのだが、「ひさご」の場合は正にそうであった。それが福隅靖・俊子夫妻との出逢いである。「ひさご」の名物料理は猪鍋、熊鍋、鹿刺、天然鮎の塩焼き、地豆腐と卵をたっぷり使った湯豆腐などだったが、かつては自ら猟に加わっていた靖さんだけに、猟師仲間から直接調達してくる肉はとても美味しかった。また、俊子さんが自ら摘んだ山菜で作る料理は手間のかかった愛情いっぱいのもので、美味かった。


 お二人は十津川村の自然や文化をこよなく愛していたが、そのことは何よりもお二人の作る料理を食べればよくわかったし、「ひさご」が地元の人々や林道などで工事に従事する人たちにとっての憩いの場となっていたことからもわかる。だが、実は福隅夫妻は十津川村の出身ではない。お二人とも阪神間の出身であり、かつて十津川の自然と暮らしに惹かれてここに移ったのである。それだけに夫妻の十津川を愛する気持ちは人一倍強いようだ。


 十津川沿いに立つ一軒宿「ひさご」の窓から川面や山々を眺めていると、その自然の中に溶け込んでいくような気がして、僕たちはとても豊かな気持ちになれた。だから僕たちは毎年12月末に開催されるアルバトロス・クラブの年末シンポジウム&忘年会の会場として、いつも「ひさご」を使わせていただき、全国各地から長旅をして集った人たちはそのゆったりとした雰囲気の中で深夜まで大いに語り合ったものだ。また、それ以外にも十津川村伝来の山菜料理講習会を催したり、熊野・古座川下り、熊野修験大峯奥駈等の行き帰りの仮眠地、休憩地としても「ひさご」をしばしば利用させていただいた。僕たちにとって「ひさご」はそんなワガママを言える宿だったのである。


 僕たちが過去十年にわたって、年末の忙しい時期に交通の便の悪い十津川村で毎回50人以上の人々が集まるシンポジウムや忘年会を催して来られたのは、「ひさご」という「場」の持つ力に負う面が少なくはなかっただろう。鶴見良行さん(故人)が癌の手術の直後であったにもかかわらずクラブの忘年会に駆けつけてくださった時、良行さんはそういう「場」の持つ重要性を語ってくださった。それが正しかったことは、「ひさご」との関係をとても大切にするクラブのメンバーが数多くいることからもわかる。


 しかし、出会ったばかりの頃はまだお元気で、鮎を捕る網を仕掛けるために川を泳いでいた靖さんも、山道に分け入って山菜を摘んでいた俊子さんも、ここ数年は身体の調子を悪くされ、「ひさご」は一部の常連客以外は宿泊を断る状況になっていた。そして今年、僕たちは福隅夫妻からついに店を閉めることにしたという報せを受けたのである。そこで、僕たちはお二人のために最後の宴を催すこととし、 今年もアルバトロス・クラブの忘年会の会場を「ひさご」に決めた。そして、有志一同は前日から「ひさご」に入り、全ての部屋を大掃除し、てんとう虫たちの冬眠場所となっていた布団を全部干して、忘年会の準備を整えた。それが私たちに出来るせめてもの恩返しだったのである。


 最後の宴は盛況だった。いつものような講演形式の年末シンポジウムとは趣向を変え、皆が様々なアイデア料理を作って、それを参加者全員で共食するというイベントだったが、それは本当に楽しいもので、お腹も気持ちもいっぱいになった。人と接する際に「一期一会」の気持ちを持つことは大切だと思うが、料理との出会いもまた「一期一会」であるべきだろう。「ひさご」の料理をもう食べることが出来ないと思ったとき、僕はそう確信した。 十津川の自然と暮らしをこよなく愛してきた福隅夫妻だが、残りの人生を十津川で過ごすかどうかはまだ決めていないという。


 でも、福隅夫妻が野尻に住んでいる限りは、僕はこれからも「ひさご」に立ち寄りたいし、お二人とお目にかかる機会はまだあるだろう。それにしてもアルバトロス・クラブが大切な交流の「場」を一つ失ったことは間違いなく、僕は十年の長きにわたってそんな素敵な「場」を提供してくださった福隅夫妻と「ひさご」に対して心からお礼を言いたい。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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