拓海広志「イメージの力で海を渡る(1)」

 1998年の6月に、新西宮ヨットハーバーにて「多様性の中でのアイデンティティ」というテーマのミュージック・シンポジウムが催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。講演と音楽を組み合わせたユニークな形態のシンポジウムで、僕もウクレレ片手の講演(漫談?)をさせていただいたのですが、その内容をここに紹介させていただこうと思います。


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【1:ハワイアンの原点】


 ただいまご紹介にあずかりました拓海広志です。今日のシンポジウムは音楽による表現ということに重きを置いておりますので、僕も洒落で漫談用のウクレレを1本持ってまいりました(笑)。学生時代に帆船の日本丸でハワイを訪れた時に現地で買った玩具のウクレレなのですが、自分では結構気に入っており、キャンプに出かけたりする時にはいつも持参しています。ウクレレと言えばハワイアン・ミュージックを連想される方が多いと思うのですが、まずは挨拶代わりにハワイアンの古典とも言える曲『アロハ・オエ』を歌わせていただきます。

     
   (『アロハ・オエ』歌唱♪)


 ありがとうございました。この曲はカメハメハ王朝最後の女王・リリウオカラニが作ったもので、アメリカの支配の中に埋没して滅んでいった王朝へのレクイエムとしての意味を持つ曲なのですが、いつしか甘く優しい旋律にのって「ハワイの美しい自然」と「恋人達の別離」を歌った歌として巷間に定着していきました。こうしたイメージはハワイの観光地化に伴ってハワイアン・ミュージックが商業化されるにつれてさらに鮮明なものとなっていき、今や『アロハ・オエ』はハワイの美しい自然を彷彿させるイメージ・ソングの古典的代表としての地位を築いています。


 19世紀までのハワイには打楽器以外の楽器は存在せず、神々との交感のための踊りであったフラは打楽器の伴奏のみで成り立っていたそうです。ハワイの音楽が大きく変わるのは19世紀になってからのことであり、アメリカ人宣教師がもたらした賛美歌の影響による音楽感覚の西洋化が進み、さらにメキシコ人が持ち込んだギターや、ポルトガル人が持ち込んだ小型ギター(ブラギーニャ)といった弦楽器を使用することによって、その演奏形態も大きく変わりました。ちなみに、小型ギターはハワイではウクレレと呼ばれるようになりますが、その語源はウクレレの音が蚤(ウク)が跳びはねる(レレ)感じに似ていることによるいう説もあります。


 ハワイアン・ミュージックの原型が確立するのは19世紀終わりのことですが、それはカメハメハ王朝の王族たちによる積極的な働きかけの中で進められました。彼らはドイツから音楽教師を招くなどして熱心に西洋音楽を学び、そうした中で先ほど紹介したリリウオカラニ女王をはじめとする優れた音楽家が誕生してきたわけです。それにしてもハワイがアメリカという巨大な侵略者に呑み込まれていく過程において、ハワイの人々が積極的に西洋音楽を取り入れ、それによって自分たちのアイデンティティを表現しようとしたのは興味深いことです。


【2:クロンチョンの役割】


 ところで、ハワイでウクレレと呼ばれるようになったポルトガルの小型ギターはアジア太平洋各地の音楽に少なからぬ影響を与えたようです。大航海時代の先駆けであったポルトガル人たちは16世紀には東南アジアに入ってくるのですが、彼らが持ち込んだ小型ギターはインドネシアではクロンチョンと呼ばれるようになります。


 クロンチョンやチェロ、ギターを中心とするバンド形式の演奏形態は、ジャカルタ近郊のトゥグー村に住み着いたポルトガル系の人々によって代々受け継がれ、やがて彼らの奏でる音楽自体がクロンチョンと称されるようになりました。私もトゥグー村へは何度か足を運びましたが、村の人たちは今でも先祖伝来の音楽であるクロンチョンを大切にしています。長くポルトガル系の人々の間でのみ歌い継がれてきたクロンチョンが急速にインドネシア全土に広がっていくのは20世紀半ば以降のことなのですが、今日は誰もが知っているクロンチョンの名曲『ブンガワン・ソロ』を歌わせていただきます。


   (『ブンガワン・ソロ』歌唱♪)


 この曲はインドネシアを代表する作曲家の一人であるグサン・マルトハルトノ氏が作詞作曲したものであり、中部ジャワから東部ジャワにかけて流れるソロ河について歌った曲です。『ブンガワン・ソロ』も『アロハ・オエ』同様に優しくて美しい旋律を持つ曲で、ソロ河の悠久の流れとともに生きる人々の暮らしを歌い、ジャワ人にとっての心の原風景を描いたものであるというのが一般的に理解されているところです。音楽がイメージを喚起する力にはなかなか凄いものがありますが、『アロハ・オエ』がハワイの原風景を彷彿させたように、『ブンガワン・ソロ』もまたジャワの原風景を想起させる力を持っています。でも、そうしたイメージはどのようにして形成されてきたのでしょうか?


 『ブンガワン・ソロ』が作られたのは1940年のことなのですが、その頃のインドネシアはオランダの植民支配から日本の軍政下へと移っていこうとしており、そうした圧政の歴史に耐えながらも若手エリート層の中に独立を求める気運が高まっていた時代でもありました。それで、『ブンガワン・ソロ』には「民族独立へのメッセージ」が巧妙に織り込まれているという説もあるのですが、その真偽のほどはともかくとして、『ブンガワン・ソロ』がインドネシアの「美しい自然」に対する原風景=イメージを作り上げる上で大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。


 第二次世界大戦の後4年に及ぶ独立戦争を経て、インドネシアは1949年に独立を果たします。独立後のインドネシアが掲げたスローガンの中に「Bhineka Tunggal Ika(多様性の中の統一)」という有名な一句がありますが、スカルノ政権は多民族国家であるインドネシアを統一していくために様々な仕掛けをしました。その一つがマラユ語由来の言葉であるインドネシア語の普及政策だったのですが、クロンチョンはそれを助けるために大いに利用されたのです。インドネシア各地の伝統音楽とは異質の旋律を持つクロンチョン・ソングに付けられたインドネシア語の歌詞を歌うことによって、人々は外来語に等しかったインドネシア語を覚えていったわけですが、それに伴いインドネシアの自然・風土に対するイメージも流布していったようです。


【3:『故郷』イメージの共有】


 続けてもう一つだけ聞いていただきたい曲があります。日本の文部省唱歌として有名な『故郷』です。作詞者は高野辰之氏、作曲者は岡野貞一氏。この二人のコンビは文部省が明治の末から大正の初めにかけて押し進めた「小学唱歌教科書編纂プロジェクト」において重要な役割を果たし、『春が来た』『紅葉』『春の小川』『故郷』『朧月夜』といった曲を生み出しました。高野・岡野コンビについては猪瀬直樹氏がルポルタージュを書かれていますので、興味のある方はそれを読んでみてください。


   (『故郷』歌唱♪)


 如何でしょうか? 「兎追いしかの山」「小鮒釣りしかの川」−そのような原体験を持っていなくとも、「山は青き故郷」「水は清き故郷」という日本の原風景を素直に受け入れている方が多いのではないでしょうか?


 文部省が小学唱歌を作るというプロジェクトを始めたのは日露戦争が終わり、日本が本格的に国際社会の荒波の中に乗り出していこうとしていた頃のことです。高野・岡野コンビをはじめとする作詞・作曲家たちは文部省の期待に大いに応え、後世に残る曲を数多く生み出したわけですが、唱歌はしばしば「日本の自然」について歌っているものの、その旋律は極めて西洋的なもので、先ほどお聞きいただいた『故郷』などは従来の日本の民謡にはなかった三拍子のリズムを刻んでいます。


 アメリカのパワーと西洋文明に呑み込まれつつあった時代のハワイ、長年にわたるオランダの植民支配から独立を獲得したものの多民族国家ゆえの難問を抱えていた時代のインドネシア、日清・日露戦争を経て国際社会の仲間入りを果たしつつあった時代の日本。そうした状況下において、ハワイでハワイアン・ミュージックが生み出され、インドネシア全土にクロンチョンが広められ、日本では文部省の肝いりで小学唱歌作りが進められたということには、何らかの共通点があるように思うのですが、皆さんはどうお感じになるでしょうか?


※参考記事「渡海−人は何故海を渡るのか?」
※参考記事「石貨交易航海の再現」

 
(無断での転載・引用はご遠慮ください)


⇒「イメージの力で海を渡る(2)」


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