拓海広志「カタフリ夜話(2)」

 海の仲間が狭い船内で酒でも飲みながら、四方山話ならぬ四方海話にふけることを、船乗り言葉では「カタフリ」といいます。今回は今から8年ほど前に海の仲間たちと作っていたMLで交わしたやり取りの中から、僕が書いた部分を幾つか抜粋して紹介させていただこうと思います。


※題名:シマ

 Iさん、「日本人はインドネシアスマトラ、ボルネオ、スラウエシを「〜島」と呼ぶのに、本州、九州、四国、北海道については何故「〜島」と呼ばないのか?」という問題提起、ありがとうございます。是非、日本島嶼学会発起人である長嶋俊介さんのご意見も拝聴したいと思いますが、僕は日本人が本州、北海道、九州、四国を「〜島」と呼称しないのは、歴史的にそれを「島」として認識する視点がなかったからだと思います。

 司馬遼太郎氏も指摘しているように、日本において道を阻んできたのは海ではなく山であった筈で、四国を例にとると瀬戸内に面した地方が山陽地方との交流が盛んで文化的にも共通性が多いのに対して、太平洋に面した土佐の方は薩摩、熊野と通じていました。しかし、両者の間は四国山地によって隔てられ、お遍路さんを除いては、あまり交流もなかったようです。このように山によって道が阻まれ、国が分けられる一方で、海は道として存在していたために、日本人は本州、北海道、九州、四国の四島をそれぞれ一つの閉じた島として認識することができなかったように思うのです。

 しかし、それならばインドネシアスマトラ、ボルネオ、スラウエシだって同じではないかということになるのですが、それは全くその通りで、当のインドネシア人は歴史的にそれぞれをひとまとまりの島として認識する視点は持っていなかったのではないかと思います。国際海洋法上、「群島国」という宣言を行った最初の国はインドネシアであり、続けてフィリピンが同様の宣言を行ったわけですが、これらは島嶼東南アジアに住む人々の空間認識のあり方を如実に示していると思います。つまり、それぞれの島がまとまりの単位とはなっていないのです。

 もし、インドネシア人がスマトラ、ボルネオ、スラウエシといった巨大な島々のことを自ら「Pulau(島)」と称することがあるとすれば、それは植民地時代に定着した西洋人の地理学上の認識に基づくものか、あるいはジャワ中心主義の立場から外島を島として眺めることによるものかもしれません。しかしながら、外部の存在である日本のマスコミがそれらの亜大陸的な島々を「島」と称するのは仕方がないような気もします。同様に外国人は本州のことをHonshu islandと呼称しているわけですから...。

 ところで、先だって沖縄でお目にかかったボーダーインク社の新城和博さんは「沖縄」とか「琉球」とかいうことよりも、「シマ」という言葉にこだわっていきたいと言っていました(沖縄では村のことは「シマ」とも呼称されます)。彼の言う「シマ」とは通常使われる「島」という概念に加えて、インターナショナル・ネシア的なものを指しているように思います。

 これは島尾敏雄氏の南島論が「ヤポネシア」という概念を使うことによって日本を相対化する視点を獲得しようとしたのに対して、吉本隆明氏の南島論がそういうことを越えて普遍性・世界性に至る道を求めようとしたこととも似ていて興味深いのですが、そうすると僕に言わせれば熊野だって「シマ」になるわけで、新城さんの「シマ論」と僕の「熊野論」には接点があるかも知れません。

 ここで、またまた話は変わりますが、寅さんの口上にもあるように、日本においては「島のはじまりは淡路島」です。でも、それはどうしてなのでしょうか? 坂東眞砂子氏は『死国』という小説の中で、阿波に至る道をひくために「阿波路(淡路)」がまず作られたのだという興味深い説を紹介しており、それもなかなか説得力があるのですが、「何故、淡路からだったのか?」というのは明石海峡を望む舞子の町で毎日淡路島を見て育った僕にとって非常に興味のあるところです。


 (後略)


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