拓海広志「タガロアの故郷を訪ねて(3)」

 これは今から10数年前のある年の6月末に、インドネシアのマナド、サンギールを旅しながら書いた日記からの抜粋です。


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★6月27日(前編)

 朝5時、船はサンギール島のタルナに到着した。あいにく外は雨模様だ。僕たちは波止場で客引きをしていたべモに乗り込み、エディさんの知り合いがやっているというトタン板作りの茶店へ向かった。エディさんが教鞭をとるサム・ラチュランギ大学の水産学部は以前サンギール島に学舎があったそうで、彼もこの島に3年ばかり住んだことがあるという。

 「私がサンギールに案内した外国人は多いですよ。拓海さんと親しい方だと、民族学者の秋道智彌さん、床呂郁哉さん、写真家の門田修さん、スールー・バジャウのハッジ・ムサさんとかね・・・」とエディさんは言った。秋道さんは昨年サンギール諸島を約1月かけて調査しており、その際にパラ島にも渡っておられる。同氏はそこでムロアジ漁などの調査をされたのだが、実はパラ島民にムロアジの加工法を教えて商品化させたのは先述のソノヲ・テラアダさんである。皆、どこかで何となくつながっていることを知るのは楽しいものだ。

 雨が小降りになってきたところで薄暗い茶店を出て、エディさんの旧友だという華人の家に向かう。この人はエディさんの大学時代の同級生で、かつて一緒に水産経済学を学んでいたそうだ。同学科の学生の多くは将来役人になることを目指しているのだが、インドネシア政府が推進するプリブミ優遇政策によって自分が役人にはなれないことを悟った彼は大学を中退し、商売の道に邁進するようになったという。

 彼の家の表側は半分が食堂、半分が雑貨屋になっており、その奥に台所と倉庫があった。台所では彼の家族と使用人たちが総出で売り物にする料理の下拵えや菓子作りに励んでいるところだったが、僕たちは彼の親切に甘えて水浴させていただいた上に、朝食までご馳走になった。出されたのはサンギール名物のパンコールというもので、砕いた麦にココ椰子の胚乳と黒砂糖(椰子砂糖)を混ぜて練ったものをフライパンで焼いて出来上がる。味はなかなかで、「ハビビ大臣がサンギールに来たときは開口一番『パンコールが食べたい』と言ったんですよ」とエディさんは言った。

 朝食が終わってから、エディさんの旧友はサンギールの地図を広げて島の地理と歴史、交通に関する説明をしてくれた。地図を眺めると島の東岸にはナハという名の村があったが、これはかつて糸満の漁師たちがここに渡ってきたときの名残だという。

 ところで、サンギールは通常「Sangihe」と綴られるのだが、これを「サンギへ」と呼ぶことはない。実はサンギール語では「h」を「r」と発音することが多く、僕たちが今いる町タルナ(Tahuna)も「タフナ」とは発音しないのだ。では、先述のナハはどうなるのかと言えば、これはあくまでも「ナハ」なのであり、要するに「h」はそのまま「h」と発音する場合と、「r」と発音する場合の二通りがあるということなのだろう。

 エディさんの旧友宅を後にした僕たちはべモを1台チャーターしてサンギール島を巡ってみることにした。今夜の船で再びマナドに戻らねばならぬため、せいぜい島の南西部にあるタマコ村くらいにしか行けないだろうというのがエディさんの意見だったが、タルナの町を出る前にまずは魚市場を覗いてみることにした。

 浜の魚市場は青果市場と隣接していた。青果市場ではずらりと並べられたサゴ澱粉が目立ったが、魚市場で水揚げされている魚の9割以上はムロアジで、他には偶然網にかかった魚がついでに売られているといった感じだった。もちろん、青果市場には幾種類かの野菜や果実もあったが、サゴ澱粉ムロアジの存在感は圧倒的に大きく、これらが島民の食生活において占める割合の大きさを感じ取ることができた。

 タルナを出発してからすぐのところに、妙にアラビア風の顔つきをした人を多く見かけるティドレという名の村があった。エディさんにその由来を尋ねたところ、この村は200〜300年ほど前にマルクのティドレ島の漁民たちが漁場開拓のために移り住んできて作ったものだという。当時ティドレやテルナテあたりには多くのアラビア商人が来ていたが、そうした人々もティドレ漁民と共にサンギールへ移ったのち定住し、やがて混血していったのではないかというのがエディさんの説である。

 東南アジアの人々の動きは非常にダイナミックで、大規模な民族移動以外にも人々は常に移動を続けている。そんな中で様々な文化や民俗が生まれ、また人々の混血も行われてきた。先日ジャカルタでお会いした京都大学の田中耕司さんは、「インドネシアでは農業のことを考える際にさえ、<移動>という問題がついてくる。農業=<定住>という日本的な思考ではインドネシアの農民のダイナミズムは捉えきれない」と言われていたが、全くその通りだと感じる。

 ところで、ミナハサ半島に住む人々はかつてフィリピンのミンダナオ島から移ってきたとされており、それ故にこの地方の言語はフィリピンの言語と親縁性が高いと言われる。一方、ミナハサとミンダナオの間にあるサンギール諸島に住む人々は今日ではミナハサのマナドとミンダナオ南部のヘネラル・サントスに移り住むことが多く、後者についてはプランテーションでの農業に従事する人が多いようだ。

 ジョン・ラハシアさんやボブ・ホブマンさんはサンギール諸島こそがポリネシアに乗り出していった古の航海民たちの出発地であるとしており、今でもサンギールにはポリネシアの基層文化と共通するものが多く残っていると語る。これについては僅か1日の滞在では十分な観察もできないので何もコメントできないが、サンギール・タラウド諸島及びマルク北部のモロタイ島、ハルマヘラ島あたりが東南アジアと太平洋をつなぐ道として重要な役割を果たしてきたのではないかというのは、普通に地図を眺めていれば出てくる仮説ではある。

 2時間ほど走ってタマコ村に着いた。村のあちらこちらに丁子(クローブ:チェンケ)やナツメグ(パラ)、またナツメグの仮種皮にあたるメースが干されていたが、これらも元はと言えばマルク地方から移植されたものである。エディさんによると、最近は丁子もナツメグも国際取引価格が非常に下がっているので、それらを栽培している農家も楽ではないようだ。

 タマコでは今でも浜造船の様子を見ることができるが、僕たちが訪ねたときには500トン程度の客船を作っているところだった。残念なことに船大工がいなかったので詳しい話を聞くことはできなかったが、南スラウェシの村でブギスの人々がピニシなどを作っている浜造船の様子と似た面も多いように思われた。機会があれば、もう一度タマコを訪れて船大工の話を聞いてみたい。

 タマコのワルン(屋台店)で簡単な食事をしたが、そこで出された魚料理は匂いがきつく、ザラザラとした舌触りのする野菜と一緒に煮込んだもので、人々はその草のことをバラカマと呼んでいた。以前フィジーを訪れた際に、同国海運局で勤務する知人がご馳走してくれたフィジー料理の中にもこれと同じ魚料理があったし、ヤップの料理でもこの草は使われている。

 昼食のあと、再びタフナへ向かう道を戻ることにした。途中のマンガニトゥという村には古のサンギールのラジャの家があるというので、そこを見学させてもらうことにした。芝生を敷き詰めた敷地の中に西欧風の家が構えていたが、それがラジャの家だったらしい。エディさんが庭を掃除していたおばあさんを見つけて、家の中を見学させてほしいと申し出た。恐らく西欧人の血が混じっていると思われるそのおばあさんに「ラハシアさんの知り合いです」と言うと、彼女は家の鍵を取りに納屋に入って行った。

 おばあさんの姿が見えなくなったところでエディさんが囁く。「実はね、彼女がサンギール最後のラジャの長女なのです。彼女の夫は確かドイツ人だったと思いますが、2人はこの敷地内に住んでラジャの旧家を守っているのですよ」。そう、僕が納屋と勘違いした建物が、彼女とドイツ人の夫が現在居住している家なのであった。

 僕たちはおばあさんに扉を開けてもらい、ラジャの旧家の中に入った。ジョグジャカルタやソロの王宮にしてもそうだが、インドネシアの王の家というのは北京の故宮やヨーロッパの王宮などとは比較にもならぬくらい質素で整然としており、またあけっぴろげでもある。このサンギール王の旧家も説明を受けねばそうとは気づかぬほどだったが、調度品の大半は現在マナドの博物館などで展示されており、これといったものが残っていなかったのは残念だ。

 僕はインドネシアの旧家を訪ねる際には、そこに伝わる陶磁器をよく見るよう心がけている。もちろん、自分に陶磁器を鑑定できるほどの目があるわけではないのだが、それらを見ながらどの時代にどの地域で作られた陶磁器がインドネシアに渡ってきたのかを知ることは楽しい。機会があれば、このラジャの家を再訪し、保管されている陶磁器を見てみたいものだ。


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