拓海広志「キラキラ日記帳(8)」

 これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。


   *   *   *   *   *   *


★某月某日

 午前中はタナ・トラジャのいわゆる観光コースを少し巡ってみた。観光客目当てにしつらえられた織物村などはあまり印象に残らなかったが、山や川の風景は美しく、次の機会には自転車を使って村を巡るか、それともカヤックで川下りをしてみたいと思った。

 宿に戻り、前日に注文しておいたトラジャの伝統料理を食べながら、改めて正月を祝う。豚を煮込んだ料理がとても美味だった。

 宿の従業員とアルバイトの学生たちが名残を惜しんでくれ、そのうちの一人は感極まって泣き出しそうな顔をしている。たった一晩だったのに、彼らとは随分親しくなってしまったようだ。

 今日は山道を東に下り、ボネ湾のパロポを目指す。パロポまでの道はカーブの多い細道だが、奥熊野の林道などに比べるとはるかによく整備されている。道沿いには丁字(チェンケ)、コーヒー、ドゥリアンの木がよく目についた。

 山の中腹あたりに道路脇にステージが作られ、そこでダンドゥットの演奏会が開かれていたので、ちょっと驚いた。ダンドゥットとはマレー半島スマトラの伝統的な音楽にロック調のビートを加味した大衆音楽で、エレキギターなどの現代音楽とスリン(竹笛)、クンダン(太鼓)などの伝統楽器を組み合わせたバンドによって演奏される、いわば庶民のための音楽である。

 夕方、パロポに到着。浜の埠頭へ行ってみる。ここはブギス人の重要な拠点の一つだけに、埠頭のそばから沖に至るまでの海には数え切れないほど多くの舟型バガン(敷網)が浮かんでいるが、ピニシは一隻も見あたらない。浜には杭上家屋が建ち並び、そこにダブルアウトリガー・カヌーが数隻つながれている。

 ここのカヌーは最初から船外機と中央舵を付けるために船尾を断ち切っており、アウトリガーの先には両舷に上下2本ずつの浮きが取り付けられているのが特徴のなのだが、ボネ湾の穏やかな海域で何故フロートをそれほど強化する必要があるのかはよくわからないので、少し考察する必要がある。

 杭上家屋の間に渡された板の道を散歩しながら人々と話をしたところ、彼らの大半が自らのことを「オラン・ルウ(ルウ人)」と称することが気になった。パロポは9世紀頃に興されたブギス最古のルウ王国があったところで、現在も南スラウェシ州ルウ県の県庁所在地になっている町だ。普通なら自らのことを「オラン・ブギス(ブギス人)」と称すべきところを、あえて「ルウ人」と言うところに彼らのアイデンティティのよりどころを見る思いがした。

 埠頭を出たところで激しい雨になり、手近なところにあった「パロポ・ホテル」に投宿した。エアコンと水浴場付きのツインルームで3万ルピア(約1500円)だったが、今回の旅で泊まった宿の中では一番不潔な感じがした。

 正月のために宿の食堂が閉まっており夕食が食べられないので、僕たちは雨の町をとぼとぼと歩き、ようやく一軒の汚い店を見つけた。そこで凄まじい数のハエたちを追い払いながらチョト・マカッサル(牛の内臓を煮込んだシチュー)を食べて、何とか腹の虫を抑えることができたが、お陰でパロポのイメージが少し悪くなった。


★某月某日

 朝一番にべチャに乗ってパロポの埠頭に向かう。埠頭には魚の仲買人が大勢集まっていたが、どうやらここでは卸売市場を経ずに、漁船からそのまま仲買人に魚が渡される仕組みになっているようである。いわゆる「船買い」というやつだ。魚のほとんどは沖のバガン(敷網)もしくは浜近くに設置されたセロ(魚柵:琵琶湖のエリと同じもの)で獲られたもので、エビ、アジ、カマスサヨリなどが多い。

 埠頭を散歩したあと、中央市場に向かう。店はまだ朝の準備で忙しそうだったが、市場内の通りではドゥリアンとサゴがたくさん目につく。

 この日は古のブギス・ボネ王国があったワタンポネ(旧称:ボネ)を抜けてビラ村へ向かう。かつてボネ王国はマカッサル人のゴワ王国との間で激しい抗争を繰り返し、17世紀半ばにはしばらくその軍門に下っていた時期もあったのだが、1667年にオランダ東インド会社と組んでゴワ王国を打ち倒し、南スラウェシの覇権を握ったという。しかし、現在のワタンポネはごく平凡で静かな田舎町であり、これといって見るべき遺跡なども残っていない。

 ワタンポネを過ぎるとバジョエ村という村がある。名前からも容易にわかるように、ここは漂海民・バジャウと縁のあるところで、鶴見良行さんの書かれた『ナマコの眼』の表紙にはこの村でナマコを煮ているバジャウのお婆さんの写真が使われている。

 ところが、今回僕が村で声を掛けた人々は「ここにはもうバジャウはいないよ」、「彼らはもうケンダリ(南東スラウェシの町)の方に移ってしまったよ」などと言うばかりでどうも要領を得ない。結局バジョエ村を散策する時間はほとんどなく、その真偽を確かめることが出来なかったのが悔やまれる。

 夕方になってビラ村に到着する。ビラ村はベトナム由来のドンソン銅鼓が出土したことで知られるスラヤル島を望む美しく静かな村だが、ここは知る人ぞ知る海洋民ブギスの造船村でもある。ビラではピニシはもとより、ありとあらゆる木造船が浜造船で作られており、インドネシア各地のみならず、アジア各国やオーストラリアなど海外からの注文も多いというから驚きだ。

 彼らは設計図なしでキールに次々と板を継ぎ合わせるようにして船体を作り上げていき、肋骨材はあとから取り付けていくという独特の方法で船を作る。外板を継ぎ合わせる際にも釘は一切使わないのが彼らの伝統的な工法であるが、こうしたやり方は小舟であっても500トンに及ぶ大きなピニシでも基本は同じのようだ。造船に使われる原木はジャティ(チーク)、セパン(スオウ)、プデ、ビチ、ベシの5種である。

 一人の年老いた船大工が「ビラ村には日本兵の落とし子が多いから、あんたたちのことも他人のような気がせんよ」と言って、僕たちを建造中のピニシに上げてくれた。スラウェシではよく聞く話である。
 夜はビラ村の浜に建てられた「ビラ・ビーチ・コテージ」というコテージに泊まることにする。水浴場の付いたツインルームが1泊4万ルピア(約2千円)だ。宿に着いた時にはもう太陽が沖の方に沈みかけていたが、あまりに夕陽がきれいだったので海に飛び込むことにした。

 浜の白砂の粒子はびっくりするほど細かくて美しい。珊瑚礁の海水は日中の陽射しであたためられており、まるで温泉のぬるま湯に浸かっているようだ。浮き身で波間を漂い続けていると、段々頭の中が真っ白になっていき、海と身体が溶け合っていくように感じられた。


★某月某日

 午前中はビラ村を散策してまわったが、昼前に再びコルトに乗り込み、マカッサル(ウジュン・パンダン)への帰路につくことになった。ブルクンバからジェネポント、タカラルに抜ける道は快適なドライブコースだ。

 街道沿いでマカッサル人の少年がニッパ椰子から作ったバロゥと呼ばれる蒸留酒を売っていたので、それを買って飲みながら車窓の景色を眺めているといつの間にかうとうとしてしまい、気が付いたら車はもうマカッサルの町に入っていた。僕はタカラルからマカッサルにかけての海岸部でトビウオ漁を行っている漁民たちを訪ねるつもりでいただけにちょっと残念なことをしてしまったが、まあ仕方がない。

 奈須さんと二人で中華料理屋で夕食をとった後、街をうろついてみる。少年が甲羅の長さが50センチほどあるタイマイの剥製を3万ルピア(約1500円)で売っていたが、あまり人々の関心をひいてはいないようだった。

 商店街の骨董品屋を物色し、13世紀頃にスコータイ(タイ中部の小都市)で作られたという皿が気に入ったので購入した。それは俗に「ソコタイ」の名で知られる魚文鉢ではなく、底部には花の模様が描かれていた。奈須さんの方は中国宋代の青白磁皿を買ったのだが、景徳鎮や龍泉窯で知られる南宋の窯は都が杭州に遷されてから非常に活況を呈するようになり、当時多くの焼き物が南海の島々にも渡って行ったと言われているので、彼が買った皿もそのうちの1枚だったのかも知れない。


★某月某日

 朝から中央市場に行ってみる。さすがに活気に満ちあふれており、魚屋には魚市場から運び込まれたばかりの魚介類の他に青ウミガメもたくさん並んでいた。

 それからマロスまで足を伸ばし、蝶が多いことで知られる自然公園を散策していると、園内の森でニッパ椰子の花弁を切断し、そこからにじみ出てくる液を青竹の筒に集めているところに出くわした。この液を自然発酵させると、我々が先日トラジャで飲んだトゥアックが出来上がるのだ。そうこうするうちに、ジャカルタへ帰る時間が訪れた。短い旅の終わりである。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)




【浜造船の様子】


Link to AMAZON『ザ・ダンドゥット・クィーン』

ザ・ダンドゥット・クィーン

ザ・ダンドゥット・クィーン

Link to AMAZON『辺境学ノート』
辺境学ノート

辺境学ノート