拓海広志「人間にとっての表現(1)」

 今から8年ほど前に奈良県十津川村で「人間にとっての表現とは何か?」と題するシンポジウムが催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。そこで僕が発言した内容をここに転載させていただきます。


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※拓海広志

 皆さん、こんにちは。UさんとMさんから人間の表現について素晴らしいお話をしていただきました。最後は僕の出番ですが、残念ながら残り時間が10分しかありません(笑)。ちょっと駆け足で行きたいと思います。

 以前僕の友人が「人間には性欲と食欲の他に表現欲があるが、性欲と食欲は動物も持っているのに対して、表現欲は人間だけのものである」ということを言っていたのですが、それを聞いた時に思ったのは、実は性欲と食欲というものも人間にとっては表現欲の一種なのではないかということです。つまり、単なる生存のための性欲、食欲とは別に、性と食を表現の手段として様式化してきたことこそが人間の特徴ではないかということです。

 先ほどUさんがお話になったことは、僕が普段考えていることと共通点が多々あり、僕は非常に共感をおぼえました。僕も表現について考えていくと、どうしても言葉にこだわらざるを得ないのですが、敢えて誤解を恐れずに言うならば、人間の表現というものは究極的には言葉に還元されうるのではないでしょうか?

 サル学者たちによると、サルと人間の間に決定的な相違点を見出すことは難しいそうで、言葉にしても初歩的なコミュニケーションの道具としての言語はサルたちも持っているわけですね。そうすると、言葉は人間だけのものであり、動物にはないと言うことは出来ないわけですが、それでも人間の言語はサルの言語とは大きく異なっているように思います。

 Uさんが引用された海を見て「うーっ!」と唸るという話は、吉本隆明氏の『言語にとって美とはなにか』に書かれていたことだと思うのですが、ここで吉本氏が言わんとしているのは、意味とか構造、記号といった後追いの解釈から言語を語るのではなく、言語の本質を人間が自然を対象物として捉えたことによる畏れの表出として理解すべきだということでしょう。

 つまり、原始時代の山の民が海を見た時に感動して「うーっ!」と唸ったというのは、自然を対象物として見てしまったということであり、そこで彼が抱いた畏れや不安感のようなものが表出されたのが、「うーっ!」という唸り声だったということですね。そうすると、人間が自然に対して対立感あるいは疎外感を抱くようになった時に、僕たちの言葉は生まれたのではないかと思うのです。ですから、始源の言葉というものは、発語すること自体が恐ろしくなるほどの呪力、念力、イメージ喚起力を持っていたのかもしれません。

 それで言語というものが高度化していく過程において、そういった自然に対する畏れみたいなものは詩の言葉として分化していき、対象化した自然を分析するためのものは法の言葉としての発展を遂げていったというのが吉本氏の言っていたことだと思うのですが、そうなる前の初源の言葉は詩と法が混在一体となっていたと言うのですね。僕もこれについては共感する点があります。こんなふうに長い年月をかけて分化していった言葉ですが、それが僕たちによって使われる際には、無意識のうちに反発と結合を繰り返しているのではないかという気がします。

 ですから、先ほどUさんがおっしゃったように、「悲しい」ということを意味として伝えようとする際に、それを字面だけで伝えようとすると、僕たちの無意識の中では、それはちょっと胡散臭いな、となることがあるのでしょう。ところが、表現されるときに畏れみたいな感情がその言葉に加わってくると真実味が出てくる、と。

 コミュニケーションの手段として使われている言葉は、誰もがその意味を理解しているわけですが、そういった畏れというか、念のようなものが込められている場合と、いない場合では、その「伝える力」に差がありますね。同じ言葉を使っていても、ある人の言葉は響いてくるし、ある人の言葉は響いてこない、というようなことは体験的にあると思いますが、それは発語する人の無意識の中にその言葉を発することへの畏れがあるかどうかによっているような気がします。

 先ほど僕が人間の表現は究極的には言語に還元可能だと言ったのは、あくまでもこうした文脈の下の話なのですが、音楽とか踊り、絵画のような言語以外の表現手段というものは、言語が高度に分化していったことによって、初源の言葉が持っていた自然と交感する力やイメージを喚起する力が弱まってしまったので、それを代償してきたという面もあると思うのです。勿論、言葉が音として発せられる以上、言語と音楽は同時発生的に生まれてきたとも言えるかもしれませんが・・・。

 次にMさんがお話しになったことの中に、死のイメージであるとか死生観といったことがありました。人間が死んだ後に魂が残らないというのは、ごく最近の思想であって、人間は長い歴史の間にそんな思想を持ったことはなかったと思うんですね。そういう意味では、現代に生きる僕たちの死生観は、過去の人たちが持っていた死生観と比べて非常に狭いものになっているように思います。

 日本人が自然というものをどういうふうに捉えてきたか。このことは日本人の死生観とも深いつながりがあると思うのですが、日本人の自然観には大きく分けて二つの流れがあります。中世までの日本人はそれをある程度明確に分けていたのですが、それは「自然」という文字を「ジネン」と読む場合と、「シゼン」と読む場合に対応していたのですね。

 「ジネン」というのは「自然薯(じねんじょ)」の自然(じねん)のことであり、親鸞上人の『自然法爾(じねんほうに)』の自然(じねん)のことなのですが、それは「おのずから」とか「ありのまま」、「なるがまま」といったニュアンスを持った言葉でして、言い換えるとこれは自然を必然と見る自然観に基づく言葉です。

 他方、「シゼン」というのは、人間が対立物、対象物として自然を見るときに使われた言葉なのです。ですから、自然の力によって引き起こされる「万が一のこと」とか「有り得ないこと」といったイメージが「シゼン」という言葉にはあったのですが、言い換えるとこれは自然を偶然と見る自然観に基づく言葉でもあったわけです。

 これを宗教で見ると、浄土宗、その流れの中でも特に親鸞上人の思想などは、世の中で起こることを全て「ジネン」のこととして受け入れていきましょうということになります。他方、本来我々は自然と一体だったのに、いつの間にかそれが対象物になってしまったので、何とかして自然と再び合一しようと、意図的な働きかけをしていく宗教もありますが、その典型的なものが修験道だと思うのです。

 こうした二つの自然観は僕たちの人生観や死生観にも大きな影響を及ぼしてきたと思うのですが、実はこの二つの思想は完全に分離しているのではなく、お互いに絡み合っているような気がするのですね。エコロジーに関する議論をする際にも、僕たちはそのあたりをあまり意識せずに「自然」という言葉を発するのですが、ではそもそも自然とは何なのかということを考え直す必要はあるでしょう。また、人の生死について考える際にも、僕たちは二通りの自然観に基づく死生観の中で揺れ動いてきた面があるのかもしれませんね。

 残念ながら、もう時間がほとんど残っておりません。あと5分か6分くらいしかないんですが(笑)、これからUさん、Mさん、そして僕による3つの話に基づいて討議してみましょう。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【遠津川こと十津川を望む】


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