拓海広志「『フィリピンベッドタイムストーリーズ』を観る」

 今から10年程前に、クロンチョンで知られるジャカルタ・チリンチン地区のトゥグ村で坂手洋二さんにお会いして以来、劇団・燐光群の芝居は機会がある度に観てきました。骨太で直截な社会批判、権力批判と個々の生活者への優しい眼差しが同居する坂手さんの作品を観ると、社会と真っ向から対峙することをやめてはいけないと語りかけられているような気がして、僕はいつも「初志」という言葉を思い浮かべるのです。


 これまでに観た燐光群の芝居の中で特に印象に残っているのは、レンバタ島の捕鯨に着想を得たと思われる『南洋くじら部隊』と、国境や人の心理的な境界について描いた『チェックポイント黒点島』です。前者はインドネシア人、フィリピン人、アメリカ人の役者も参加しての合作で、とてもスケールの大きな舞台でした。また、後者は昨年末に観たのですが、竹下景子さん、渡辺美佐子さんの名演に魅せられました。


 ところで、燐光群がフィリピンの役者たちと共に『フィリピンベッドタイムストーリーズ』という作品を手がけていることは以前から耳にしており、是非一度観たいと思っていたのですが、ようやくその機会がめぐってきました。初期のコラボにおいては同じ芝居をフィリピン人だけ、日本人だけでそれぞれ演じ、その差異をお互いに確認するような形だったそうです。しかし、その後双方の理解と交流が進んだため、今回は両国の役者が入り乱れて出演する合作となりました。


 『フィリピンベッドタイムストーリーズ』は5つの作品をオムニバス的に並べて展開し、その舞台は全てベッドの上に設定されています。チラシのコピーには「ベッドこそ世界。あなたの吐息がわたしを溶かし、わたしのぬくもりがあなたを研ぎ澄ます。そう、私たちはここから生まれ、いつか消える」とありますが、人の生と死、そしてその狭間にある性の舞台としてベッドが暗喩的に用いられているわけです。


 5つの作品は、レネ・ヴィラヌエヴァ作『離れられない』、ラリー・ブーコイ作『ドゥルセの胸に1,000の詩を』、ロディ・ヴェラ作『アスワン〜フィリピン吸血鬼の誕生〜』、ビック・トレス作『代理母ビジネス』、内田春菊作『フィリピンパプで幸せを』と、内田さんの作品を除いては全てフィリピン人作家の手によるものです。いずれも面白い内容でしたが、中でも『アスワン』は圧巻でした。

 
 『アスワン』では、太平洋戦争中にフィリピン人の現地妻を持っていた日本兵が戦争末期にジャングルに逃げ込み、戦後もそこに潜んで暮らします。現地妻はフィリピン人たちから「穢れた存在」として殺されるのですが、その死体の腹から産まれてきた少女アスワンは生き抜くために母親の血を吸い、肉を喰らいます。その後、アスワンは父親である元日本兵によってジャングルで育てられますが、やがて思春期になった彼女は町から森に入ってきたフィリピン人の男との間で愛を交わします。ところが、彼を追いかけて町を訪ねた彼女に対し、人々の視線は冷たく、男も彼女を拒絶します。これに怒ったアスワンは、男の子どもたちを襲い、その血を吸って殺すのです。ちなみにアスワン役は日本人女優の宮本裕子さんが演じていました。


 今回、『アスワン』にはもう一つのバージョンが用意されており、そちらで森に潜むのは日本兵ではなくて猪で、猪に育てられるアスワン役はフィリピン人女優のアンジェリ・バヤニさんが務めました。アスワンが成長してからのストーリー展開は元バージョンと同じなのですが、歌う語り部とも言えるコーラス陣の存在によって、こちらのバージョンはミュージカル風に演出されていました。元バージョンが戦争を背景とする日本人とフィリピン人の関係を背後に置いていたのに対して、このバージョンは町と森、そして人間と自然の関係が背後にあったようです。


 勿論、『アスワン』以外の4作品も全て興味深かったのですが、個人的にはコメディ仕立ての『フィリピンパブで幸せを』に惹かれました。この物語では、フィリピンパブで美女に一目惚れし、彼女と一夜を明かした保育士が翌朝求婚されます。ところが、彼女は医師でもあるパブのオーナーの息子で、性同一性障害のためにかつて男性器を切除して女性になっていたことがわかります。ドタバタの挙句に二人はめでたく結ばれるのですが、性転換した美女役のマイレス・カナピさん、大らかな保育士役の向井孝成さんをはじめ、日比の役者たちが入り混じっての好演を大いに堪能しました。


 日比両国の役者たちはお互いの言葉がほとんどわからない筈なのに、日本語、タガログ語、英語が入り混じって演じられる舞台は、とても活き活きしていて、何の違和感もありませんでした。これは僕自身が東南アジアで暮らしたり、旅をしてきた際の実体験とも通ずるところがあり、東南アジアではこんな風に様々な言語が入り混じった会話がしばしば成立します。それで僕は何だか妙に懐かしい気もしていたのです。


 『フィリピンベッドタイムストーリーズ』は、今年末にマニラでも上演されるそうです。同じ芝居をマニラでやると、どのように映るのか? 観客の反応はどうなのか? 僕もマニラまで足を運んで観たい気がします。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


Link to AMAZON『くじらの墓標』

くじらの墓標

くじらの墓標

Link to AMAZON『最後の一人までが全体である』
最後の一人までが全体である―坂手洋二戯曲集

最後の一人までが全体である―坂手洋二戯曲集

Link to AMAZON『クジラと生きる』
クジラと生きる―海の狩猟、山の交換 (中公新書)

クジラと生きる―海の狩猟、山の交換 (中公新書)

Link to AMAZON『ベッドの中で死にたいの』
ベッドの中で死にたいの (文春文庫)

ベッドの中で死にたいの (文春文庫)

Link to AMAZON『XY−男とは何か』
XY―男とは何か

XY―男とは何か