拓海広志「キラキラの国の再生力(6)」

 この文章は1993年にジャカルタで書かれたものです。


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 以前『ジャラン・ジャランの道すがら』というエッセイを書いた際に、インドネシアにおける命の軽さについて少し触れてみた。人として生まれた者が家族や恋人、友人を愛し、その命をかけがえのないものとして慈しむ気持ちは洋の東西を問うことなく同じだろう。しかし、この国には傍若無人な無謀運転を繰り返すクレージー・ドライバーの群れに代表されるように、自らと関係のない人の命を軽く扱う雰囲気がある。


インドネシア文学を研究している北野正徳さんが、パサール・ミングにあるアイプ・ロシディさん(インドネシアを代表する作家)宅に下宿しているので、そこを訪ねて彼と語り明かしたときに、「残念だけど、ここにはまだ<公>の精神がないんです」と彼が語っていたのが印象的だ。ついこの前まではカンプン(集落)の互助的な関係の中で暮らしていた人々が、その枠組みをはるかに超えた<公>などというものを意識し、共通の倫理とするまでにはもう少し時間が必要なのだろう。しかし、そういうこととは別に、私はこの熱帯の風土には人間そのものを虫けらのごとく扱いうる何かがあるような気もしている。


 スールー海の略奪者である海賊たちと生活を共にして『海賊のこころ』という本を書かれた門田修さんも「アジアにおける命の軽さとは何か?」という問題意識を持っていた。そしてたどり着いたのが、「海賊たちの非人道的な考え方、感じ方は人間を生態系の一部として見なす意識が強いからではないか?」という仮説だ。これをもう少し敷衍して、アジア論を展開することは出来ないだろうか・・・?


僕は学生時代に中里介山著『大菩薩峠』を読みかけて途中で放り出してしまったのだが、最近再び手にしてみてその面白さに引きずり込まれている。中里氏は自らの作品のことを「大乗小説」と称したそうだが、『大菩薩峠』の底に流れているのは人間を自然の一部と見なす精神・感覚であり、それは仏教的であると同時に仏教以前のアニミズム的な自然観・人間観をも孕んでいるのではないだろうか。


 思想や作風は全く違えど、中上健次氏の文学にもその精神はあったし、宮沢賢治氏にはそういう感覚が満ち溢れていた。『大菩薩峠』の主人公・机龍之助の行動に見られる「必然性の乏しさ」はスールー海の海賊たちの生き様とも響き合いながら、もっと高い次元での<必然=宿業>の存在を暗示しているような気がするが、そこにはまた自然の持つ大いなる「再生力」への信仰があるようにも思われる。


 先述の北野正徳さんが、「拓海さんの文章を読んでいると、拓海さんが常に「普遍」に至る回路を希求していることがわかります」と評してくれたことがある。それは多分その通りで、言語、宗教、文化、民族、国家、性差、嗜好など人と人の間を隔てるものを乗り越えて、「普遍」から「自然」へと至る道を僕は求め続けたいのだ。もちろん、個々の人間にとって大切なのは「普遍」の問題ではなく、「個別」の問題だと思うが、「個別」の問題にこだわることが実はそのまま「普遍」に向かって開かれているような存在と表現のあり方もあるわけで、僕はそれに価値を認めるのだ。


 ちなみに、近代文学とは「個別」の問題にアプローチすることによって成立してきたものだとは思うが、優れた作家の作品中には必ず「普遍」に通ずる道を見出すことができる。中上健次氏や村上春樹氏の作品群もそうだが、最近読んだ小説の中では尹興吉著『母(エミ)』、マヌエル・プイグ著『蜘蛛女のキス』などにそれを感じた。


 原文で多くのインドネシア文学を読んでこられた北野さんは、インドネシア文学には幾つかの制約があると言う。まず、インドネシア語という歴史が浅く、発展途上の言語を使わざるをえないことから来る制約。次にイスラム教の道徳から来る表現上の制約。そして、対象とする読者が非常に限られているという制約。さらには、インドネシア語で書かれた文芸作品をきちんと邦訳できる翻訳者が少ないという、これは日本側の事情である。


 そして、これらの制約を乗り越えて、「個別」の問題を深く探求しながらも、それが「普遍」にまで開かれているというような作品は少ないのではないかというのが、北野さんの見解だった。また、ジャカルタ、スラバヤ、バンドンなどの大都市を中心にインドネシアの大衆消費社会化は進んでいるが、欧米や日本に見られるようなサブカルチャーはまだ台頭していないので、それを楽しみに待ちたいと彼は語った。


 だが、インドネシアにはワヤンという素晴らしい世界があることを忘れてはならない。ワヤンには影絵芝居のワヤン・クリ、絵巻を絵解きしながら語るワヤン・べベル、木偶人形芝居のワヤン・ゴレ、生身の役者が演じるワヤン・オランなどがあるが、ワヤンは元々はインドの古代叙事詩ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』に題材を得て、10世紀頃のジャワ宮廷で始まったものだ。中でもワヤン・クリは芸術的な完成度を高めながらも、庶民の生活や信仰の中に深く浸透しており、その内容はインドの叙事詩だけではなく、ヒンドゥー教や仏教、イスラム神秘主義の理念をないまぜながらも、あくまでもジャワ古来の祖霊信仰に根ざしている。


 僕はワヤン・クリが大好きなのだが、残念なことにダラン(語り部)の話すジャワ語を理解することができないので、松本亮著『マハーバーラタの蔭に』『ジャワ影絵芝居考』『ワヤン人形図鑑』やセノ・サストロアミジョヨ著『ワヤンの基礎』などを読んで物語の粗筋をつかんでおかねばならない。それらを通じて知ったのは、ワヤンという物語世界の豊かさであり、ワヤンが伝統芸術でありながらも常に「現在」と向き合ってきたのだということである。これからのインドネシア文学において、ワヤンの奥底を流れる自然観や生命観を根底に据え、かつ現在性のある物語が生まれてくるのならば、インドネシア文学は豊饒なる海と化すかも知れない・・・。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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