共同討議「人間にとっての表現(2)」

 今から8年ほど前に奈良県十津川村で「人間にとっての表現とは何か?」と題するシンポジウムが催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。そこで僕が発言した内容をここに転載させていただきます。


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※N:すみません。いいですか?
 

※拓海:はい、どうぞ。


※N:実は最近ネット上であるML(メーリングリスト)を立ち上げまして、僕は他の二人と共に、三人で管理人をやっています。そこで、僕が主張したのはMLというのはインターネット上でやりとりして、時間と空間を超えてコミュニケーションできる素晴らしいものですが、所詮バーチャルはバーチャルだということです。ですから、何らかの機会を設けて Face to Face で話ができる格好にならないとイヤだということを主張してきたのです。僕は田舎の人間ですから、電話するよりは実際に会って話す方が自然かなと思って、それこそ「じねん」かなと思っているんですよ(笑)。


※拓海:僕もNさんとまったく同じ意見ですね。


※T:すごく面白かったのですが、今話されなかったことの中に大きな問題が一つ残っています。お三方が話されたことが横軸だとすれば、縦軸の方に書き言葉と話し言葉の問題が残っていると思うのです。でも、もう時間がないから、二次会のときに私の方から一人一人に尋ねようと思っているのですが(笑)、これは本当に大きな問題で、歴史の中で考えたり、ジェンダーの問題として考えたり、色々な角度から考えなければならない、というふうに思うんです。私なんかは自分の本もひっくるめて、まるで話しているように書いているとよく言われるのですが、でも話し言葉の人間というのはいわゆるカシコイ人たちの間でいつも空気のような抑圧を受けているような気がするんですね(笑)。でも、話し言葉の形をとりながら話し言葉を書いているんですけれども、本当の意味での話し言葉というのは、言葉と言葉の間から漏れてしまうものを表現しようとする言葉だから、私がいくら話し言葉で書いたとしても、それはやっぱり書き言葉なんだなと思うのです。だから、この問題も非常に複雑で、また面白いのですね。


※N:そのへんは僕も言いたいところなんですよ。MLというのは一応表面上は文章ですよ。ところが文章ではない話し言葉調の世界と本当の文章が入り交じってまして、そこでたまに葛藤をおぼえることがあるのです。


※T:それは、Mさんの「ちょー恐い」とかという話にもつながることだと思うのですが...。


※M:本居宣長が「姿は似せ難し、意は似せやすし」と言ってるのですが、そのへんのことについては実はこれでもう言い尽くせてしまうのです。


※拓海:この場合、「姿」は文体ですね。


※M:そうです。つまり、その人が話している雰囲気とか口調とか、そういうものを真似することはすごく難しいことだが、意味を真似ることは誰にでもできるということを宣長は言っているのですね。これは万葉集についての話なのですが、他のことについても同じことが言えると思います。


※A:Tさんの本を読ませてもらいましたが、あの文章は話し言葉を使った書き言葉だと思うのです。要するにかなり推敲されていて...。それから、今日は言葉の話が多いけれど、表現というのは言葉によるものだけではないよね。学校に通っている子供が試験で1点でも多く点を取りたいとか、畑で美味しい野菜を作りたいというのも表現欲だし、大工仕事のうまい人はその仕事で自分の表現欲を満たすことができるわけだから、かなり幸せに生きられると思う。


※拓海:ええ、それはそうなんですね。僕も言葉が全てだなどということを主張したいわけではなくて、もともと言葉が持っていた自然と交感する力やイメージ喚起力が失われていった中で、人間は言葉以外の様々な表現方法を必要にするようになってきたという話をしたつもりなんです。


※S:では、最終的に表現はつまるところ言語に還元されるのかというと、それはどうなのかしら?


※拓海:かつて人間が言葉を生み出した時の言葉にはそれだけの力があったと思うので、その意味では還元できるとも言えるわけですが、残念ながら実際にはこれは不可逆的だと思います。


※S:つまり、そうではないっていうことですよね? 言い換えると表現の手段としては、言葉だけが極限の形じゃないということですよね。


※拓海:ええ。人間の表現が言葉から始まったということと、だからそれが極限の表現方法であるとすることは、全く違う話だと思います。


※T:でも、拓海さんが話された「初源の言葉」というのは、イメージのことを言ってるんじゃないんですか?


※拓海:一番最初の言語というのはイメージと同義だと思いますから、それはそう言っても構わないと思います。


※T:先ほどUさんが「自分があって言葉がある、と思われてきているけれども、言葉があって自分があるのではないか」という問題提起をなされたように思うのですが、その時の言葉というのはイメージのことではないでしょうか?


※M:それは正確にはイマージェリー(imagery)、つまり心像のことですね。それがヴィジョン化されるとイメージ(image)になるのですが。ヴィジョン化されない、漠然としていて何と言ったらいいのかわからないものも含めてイマージェリーと称します。日本語では「心像」という言い方が一般的ですね。


※Y:先ほどTさんが縦軸と横軸という話をされましたが、さらにもう一つ行動というか身体表現という軸があると思うのです。そうすると、軸は三本あって三次元的な構造になってくると思うのですが、今、携帯電話で子供たちが話を交わしているのが非常に上っ面のコミュニケーションになっていて、それがどうも言語表現というところには追いついていないという気がするのです。それは、今の人々が身体で何かを表現するという能力においてかなり退化しているから、こんな状況ができているのかなと、そんなふうに思うのですね。


※M:おっしゃるとおりです。私も子供たちから色々な相談を受けることがあるのですが、話していることが意味をなしていないわけですよ。ですから、この人は何故こんなことを喋っているのかということを考えないと、その人の言っていることは分からないことがあるんですね。例えば、ある人が楽しいことを話していても、それは本当は悲しいから喋っているという場合もありますよね。そこまで読めないとすごいギャップが出来てしまう。だからジェネレーション・ギャップというのは、そのあたりのギャップなのでしょう。彼らが夜中に友達と長電話している時は、話している内容なんかどうでもいいわけで、それ以前に通じ合っているわけですが、それが世代によっては分からなくなっているということではないでしょうか。


※拓海:それでは、そろそろタイムオーバーです。話がようやく端緒についたところだけに残念なのですが、この続きは二次会の方でお願いします。では、Mさん、Uさん、皆さん、ありがとうございました。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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