拓海広志「渡海−人は何故海を渡るのか?(1)」

 1989年から1994年にかけて「ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト(アルバトロス・プロジェクト)」が実施されました。1995年初頭に僕が書いた小文をここに転載させていただきます。


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 「人は何故海を渡るのだろうか?」−これは僕が少年時代に物心がついてからずっと考え続けてきたテーマだ。


 仮にこのテーマを「人は何故移動するのか?」というふうに言い換えてみても、その本質的に意味するところは変わらない。このテーマの含意は、「人が危険を犯してまで異なる環境のもとへ移動するのは何故か?」「人の移動の手段・技術はいかなるものか?」「人は新たな環境にどう適応していくのか?」ということであり、その根底にはそうした「移動」と「適応」の過程を通して「人と自然とモノの関わり方」の原型が見えてくるのではないかという問題意識がある。この「移動」というテーマをあえて「渡海」に絞り込んだのは、僕が少年の頃から一貫して「海」を通じて物事を考えたいと思ってきたからだろう。しかし、現在の僕は海も山も川も村も町も、全て一緒に考えた方がよいと思っている。


 何はともあれ、僕はこのテーマを追求していくための具体的な舞台として、まずミクロネシアの海を選んでみた。遥か昔に広大な太平洋を渡って多くの島々に植民していったモンゴロイドたちの「渡海」は想像を絶するほどの冒険だったはずだが、それをかなり組織的に進めていった彼らの「<海=自然>との付き合い方」は一体どのようなものだったのだろうか? 


 幸いなことに、ミクロネシアの中央カロリン諸島にはまだ太古の航海術を受け継ぎ、それを使って海を渡る航海者たちがいる。この人たちの航海術からの類推によって、太古の航海者たちの「渡海」のあり方、すなわち「<海=自然>との付き合い方」について考えてみたい。「ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト(アルバトロス・プロジェクト)」はこのような問題意識に基づいて出発したのだった。


 だが、「渡海」と一口に言っても、それは時代や場所、動機、目的、背景にある民俗や文化、宗教などによって実に様々だし、その手段と技術も多様だ。「アルバトロス・プロジェクト」の初期段階において、僕は仲間たちと共に「渡海−海を渡った人々」というテーマのシンポジウムを催し、こうした「渡海」の多様性と、時代や場所、動機や手段を超えて共通する点を探る試みを行った。


 このシンポジウムを通じて「アルバトロス・プロジェクト」の出発点ともなった「渡海」という僕自身の問題意識はより明確になり、プロジェクトを共に推進していた仲間たちとの間でそれを共有することも可能になったと思うが、それと同時に日頃から実践的に海と関わっておられる8名の講師に示していただいた新たな視点によって、それはより豊かなものになったように思う。


  ※シンポジウム『渡海−海を渡った人々』(1991年12月開催)  
  ・秋道智彌「人は何故海を渡るのか?」
  ・阿部年雄「海を渡る馬・人・舟」
  ・土方幹夫「日本海カヤック横断の旅」
  ・長嶋俊介「離島民の生活と心」
  ・北洋司「熊野太地の捕鯨について」
  ・高木亮英「補陀洛渡海を考える」
  ・渋谷正信「人と海の関わりを考える」
  ・鶴見良行「河海から見たアジア」
  (司会:拓海広志)


 秋道氏(国立民族学博物館教授)は太平洋の民族移動と文化やモノの伝播の話を中心に、大海を渡った人々の航海術や心性の問題(動機と空間認知)について非常に広がりのある話をされた。太古以来の航海術は現代においても完全に滅びたわけではなく、様々な形で海と関わっている人々の中に断片的ではあっても何らかの形で残っている筈だという氏の指摘は、「アルバトロス・プロジェクト」に対するエールともなった。


 カヤックを使った冒険航海(阿部氏:朝鮮海峡横断など。土方氏:日本海横断など)をしてこられた阿部氏(国際海峡倶楽部理事)、土方氏(神戸商船大学教授)からは現代の冒険の意義についてお話いただいたが、その中には冒険としての「渡海」を妨げる現代日本の社会システムに対する批判もあった。長嶋氏(奈良女子大学教授)には、現代の離島民の生活と心性について、その多様性と共通性を見出すことの意味について語っていただいた。


 太地鯨組の羽刺の子孫でもある北氏(くじらの博物館・館長)からは太地捕鯨の伝統と現状、人々の生活や北米への移民史に関する話をいただいた。また、高木氏(那智山青岸渡寺副住職)からは、穂陀洛渡海への信仰と歴史について熊野修験との関わりの中で語っていただき、ダイバーの渋谷氏(渋谷潜水工業社長)からは危機管理のあり方も含めた「<海=自然>との付き合い方」についての話をいただいた。


 最後に鶴見氏(龍谷大学教授)からは、東南アジアの多島海域において「渡海」が生活そのものとなっている漂海民たちについて、「国境」という概念を用いずに考察することの重要性についてお話いただいたのだが、氏の話はこのシンポジウムの半年後に生活の拠点をジャカルタに移した僕にとって、東南アジアの人々の「移動」「渡海」「生活」のあり方を考える上で重要な指針となった。


 さて、前述のような問題意識に基づいて我々はカロリン諸島に住む航海者たちとの接触を進めることにしたのだが、これらの島々は古来ヤップ島を頂点とするヒエラルキーに属しており、この地域がミクロネシア連邦という民主国家になった現在もなおその関係は本質的には変わっていない。


 僕が初めてヤップに渡ったのは1990年だが、それはその前年の夏に日本に来ていたヤップ島マープの前総酋長ガアヤン氏と高梁でお会いし、氏の招きを受けてのことだった。ガアヤン氏はかつて「ペサウ」という名のカヌーを造り、それを操ってヤップからグアム経由小笠原までの航海を行ったことのある人物だ。


 現在、ヤップ本島にはカヌーの建造や航海の技術は残されておらず、それが残っているのは離島のサタワルなどだけである。ガアヤン氏にしても「古い言い伝え」だけを頼りにカヌーを造って航海したのであり、それは一種の冒険航海だったと言ってもよいだろう。氏は「ヤップの伝統文化を若い世代に伝えるために海を渡った」と語るのだが、その問題意識の背景を知るためにも僕はヤップ社会の現状を見てみたかった。


 ヤップは急速な近代化が進むミクロネシアの島々の中で、自らの伝統にこだわり続けてきたことで知られる島である。ヤップには石で作った巨大な貨幣「石貨」がそこら中にごろごろしているのだが、この石貨こそが彼らの伝統の象徴だと言える。石貨は古来ヤップの航海者たちがカヌーに乗って南西に浮かぶパラオ諸島まで赴き、その山中にある結晶石灰岩を切り出してヤップまで持ち帰ったものだが、その価値は石貨の大きさや美しさだけではなく、往復の航海の苦労の度合いや、その後の流通の仕方によっても決まってくる。


 スペイン、ドイツ、日本による植民統治の中でヤップの人々の生活は大きな変容を遂げ、この石貨交易航海も今から100年ほど前に行われたきり途絶えてしまったが、アメリカの信託統治下において米ドルが流通するようになった今もなお、冠婚葬祭をはじめとする島の重要な儀式に際しては石貨のやり取りなしでは事が済まないという。


 だが、1週間ほどガアヤン氏の住むウォネッジ村に身を寄せてヤップの生活を見た僕の印象は、「援助生活の中でのジレンマ」とでも言うべきものであった。冷戦下のアメリカの北太平洋戦略におけるミクロネシアの重要性は高かったため、アメリカにはこれらの島々を政治・軍事的な影響下に置いて支配し、その見返りとして様々な援助を施してきた。だが、アメリカの援助とは英語を用いたアメリカ型の学校教育を提供することであったり、単純に現金や物資を落としていくだけのもので、必ずしもそれらが殖産興業につながったわけではない。


 特に流れ込んできた現金と物資はミクロネシアの人々の伝統的な自給自足の生活経済を破壊し、人々はこれといった労働をしなくても町で輸入食品や家電製品を購入できるようになり、その消費生活だけが近代的なものになっていったのである。そうした中で一部の若者たちの生活は退廃的になり、アルコールや麻薬に侵される者、発狂したり自殺する者の数も増えてきたという。外国人の観光客の目には美しい自然の中でのどかに暮らしているように見えるミクロネシアの人々だが、その生活の実態は必ずしも明るくはないのである。


 かつてガアヤン氏が「伝統文化の再現」のために帆走カヌー「ペサウ」の建造・航海を行ったのは、こうした島の状況に憂いをおぼえ、若者たちに自らの拠って立つ場所を教えるためだったという。こういう明確な目的意識を持ち、またそれを言葉と行動で示すことのできる人は稀なのだが、我々がそのような人物と巡り会うことができたのは幸運だったと思う。


 僕は当時ようやく電気が通うようになったばかりだというガアヤン氏の村に滞在し、毎日氏からいろいろなことを教えていただいたのだが、そんな中で氏や氏の周囲の長老たちの口から「もう一度石貨を取りにパラオへ行くことは出来ないだろうか?」という言葉が出るようになった。ガアヤン氏に言わせると、「ペサウ」の航海は氏を中心とするマープの人々が行ったごく私的な冒険航海に過ぎず、ヤップ全体にその伝統文化を見直す機会をもたらすためには石貨交易航海こそをせねばならないとのことだ。氏から「私たちも一生懸命やるので、拓海さんたちも応援してくれませんか?」という申し出を受けたことにより、我々のプロジェクトは急に具体性を帯びてきたのだった。
 

※参考記事「イメージの力で海を渡る」


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


⇒「渡海−人は何故海を渡るのか?(2)」




【ヤップ島にて帆走カヌー「ムソウマル」を建造する船大工のジョン・タマグヨロンさん】


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