拓海広志「キラキラ日記帳(1)」
これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。
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★某月某日
ジャカルタにおみえになった鶴見良行さんと秋道智彌さんを車に乗せ、インド洋に面した西ジャワの漁港町プラブハン・ラトゥへ向かう。この町にはスンダ人、ジャワ人、華人の他に、かつてはブギス人も住んでいたそうで、彼らがもたらした漁法や造船技術がこの地の漁業を成立させてきたと言われている。特にパヤン(船曳網)やバガン(敷網)による漁が盛んである。
以前、ジャカルタに住んでおられた北窓時男さんはかつてプラブハン・ラトゥの漁船の分布を詳しく調査されたのだが、ここには近代的な港に係留されたFRP漁船と木造パヤン船、砂浜に置かれているダブルアウトリガーカヌーの三種の船があり、漁民たちは何らかの棲み分けをしているようだ。
プラブハン・ラトゥの漁港には朝から夕方まで一日中漁船が出入りしては適宜水揚げがなされており、漁港内にある魚市場の活気が途絶えることはないのだが、これは漁民(漁船/漁法)の棲み分けとも何らかの関係があるのかも知れない。
水揚げされる魚の種類は、カツオ、ビンナガ、マナガツオ、タチウオ、ムロアジ、アジ、サバ、マダラハタ、ウスバハギ、アカエイ、メジロザメ、イカ、エビ、ガザミなど、なかなか多彩だ。僕たちは重さ約9キロのメバチ1尾を3万5千ルピア(約1800円)で買い、皆で調理することにした。
プラブハン・ラトゥの人口は約9万人だが、水揚げされた魚の多くはアシン(塩干し)やチュウェ(生節)にされて、近隣のスカブミ、ボゴール、バンドン、あるいはジャカルタに出荷される。ちなみにプラブハン・ラトゥ〜ジャカルタ間は乗用車を飛ばしても3時間強はかかるのだが、最近はここの浜で採れたハマグリがジャカルタで人気だし、海外市場を狙ったウナギの稚魚養殖や錦鯉の養殖なども行われるようになってきているので、この静かな町も国際流通網といつまでも無縁でいられるわけではなさそうである。
魚市場のすぐそばに「スディルハナ」(「質素」という意味)という名の食堂があるのだが、ここは僕の知る限りプラブハン・ラトゥでは一番美味しい魚料理を食べさせてくれるところだ。また、ナシ・ゴレン(炒飯)のようにシンプルな料理にしても相当なうまさで、僕はプラブハン・ラトゥに来ると必ずこの店で食事をすることにしている。
店のすぐ裏は砂浜になっており、多数のダブルアウトリガー・カヌーが並んでいる。僕は一度漁師に頼んでカヌーに乗せてもらい沖に出た際に、凄まじい数のカツオの群れに遭遇したことがある。プラブハン・ラトゥの海は少し沖に出ると水深が2000メートルくらいに達するため、大・中型の回遊魚もかなり沿岸までやって来るのだ。
しかし、このドン深の海は複雑で激しい潮と波を沿岸にもたらす。僕も一人でシーカヤックに乗って沖に漕ぎ出したところ、強潮に翻弄された揚げ句に高波に巻き込まれてしまい、相当な苦戦を強いられたことがある。
瀬戸内海の来島海峡のように潮の流れの強い狭水道を小型の船で航行する際に、潮の流れが強すぎて海に段差が出来ているのを見ることがあるが、この時はそれと似たような状態で沖合から海岸を見下ろすような格好になっていたのだから、かなりスリリングだった。
鶴見さんが盛んに「ここは面白いところだ」という言葉を発せられる。ジャワの海というと、大抵は北側の浅いジャワ海のことが話題となり、海の生命の源であるマングローブ林を完膚無きまでに破壊した後に作られたエビ養殖池の海岸線を連想する人が多いのだが(稚エビもマングローブ林を生活の場としており、それを破壊して養殖池を作るというのは矛盾した行為ではある)、南側のインド洋に面した海岸線は全く別世界なのである。プラブハン・ラトゥの海は何故か僕に「海の彼方の世界」への思いを抱かせる。
夕方、宿の台所を借りて昼間買って血抜きをしていたメバチをさばき始めたところへ、ジャカルタから中島保男さんが到着された。長年ジャカルタに住んでおられる中島さんもプラブハン・ラトゥ通いの常連で、ここの漁師の網元とも懇意にしている。明日はその網元からパヤン船を一艘借りてトローリングに出かけることになっているのだが、メバチの刺身が完成した頃に網元も宴席に駆けつけてくれ、大いに盛り上がった。
ところで、プラブハン・ラトゥとは「王妃の港」という意味なのだが、この町の人々は南海の女神「ニャイ・ロロ・キドゥル」を信仰しており、毎年4月6日には洋上で彼女を祭る船渡御のような儀式が行われる。数年前までは船渡御の際には牡牛の首が生贄として海に捧げられていたのだが、このことは汎アジア的な天空信仰に基づく農耕儀礼との関連性を示唆していて、非常に興味深い。
『日本書紀』に、荒神スサノヲがアマテラスによって高天原から追放され、新羅のソシモリに流された後、農耕神に転身して出雲に戻ってきたという記述があるが、実はソシモリというのは朝鮮語のソモリ(牛の頭)のことで、これは白頭山を中心とする朝鮮の古俗・牛頭信仰とも何らかの関係があると思うのだ。
牛の首を生贄として捧げることによって天空神に雨を乞うという農耕儀礼がニャイ・ロロ・キドゥルに対しても行われるというのは、海の女神であると共に火山の女神でもあるニャイ・ロロ・キドゥルのもう一つの顔、すなわち天候をも司る女神という性格があらわれているのかも知れない。
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
【プラブハン・ラトゥの祭りにて。現在は牛の生首を捧げるのではなく、ウミガメを海に戻すことで、ニャイ・ロロ・キドゥルへの感謝を表現している】
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