梅雨明けを聞いて間もない七月はじめの朝。僕はいつものように家から浜までの間に横たわる丘陵地帯を走り抜ける。丘の上からは狭い海峡が見下ろせ、その向こう側には大声で叫べば届きそうなほどのところに島が一つ浮かぶ。海峡を抜ける潮は早く、まるで川のような流れだ。
走る。走る。僕は走る。原稿用紙にも楽譜にも、またキャンバスにもフィルムにも記述できないが、今ここになら記せる速さ。僕はその速度を得たい。
丘の西側には少し急な坂道だ。それを駆け降りていくと、海岸まではそのまま真っ直ぐの道が延びている。僕は一気に全力疾走に入った。
「行くぞ、ジョージ!」
海岸に着けばつかの間の自由を獲得できると知っているジョージは、僕に負けまいと加速する。四本足が本気で疾駆すれば、二本足が引っ張られることになるのは必然だ。
凪から転じて潮風が吹き始め、心地よい。でも、僕らは一刻も早く海に出たくて、風の隙間をすり抜けて行きたいんだ。だから、僕らは光の粒になる。そして・・・飛んだ!
砂浜から少し突き出た防波堤。僕はその上に大の字になって寝ころんでいた。砂を洗う波の音が僕の耳を優しくくすぐっていく。そして、砂浜をさまようジョージは、散乱する朝の陽光の中に融けてしまっていた。
僕は目を閉じて、一定のペースで静かに呼吸をした。ゆっくりと、そして深く。そうすると、自分の頭の中が少しずつ透明になっていくのがわかる。思考は消え、寄せては返す波のリズムと脳波が同調していった。
波は陸に上がった僕らを連れ戻そうとする海の触手なのだろうか。僕はその手に包まれたまま、次第に海の懐へと引き寄せられていった。
そんなまどろみの中で僕は一瞬、胎児の見る夢を見たような気がする。そして、その夢の静寂の底に避けがたく大きなものの気配を感じた僕は、慌ててもう一度、目を閉じてしまった・・・。
* * * * * * * *
その夜、あまりの暑さに我慢ができなくなり、僕はイルカに逢いに行こうと思い立った。僕の外出の気配を感じ取ったジョージは尻尾を振りながら叫んだが、彼にイルカとの逢瀬を邪魔させるわけにはいかない。
僕は400CCに飛び乗り、海岸道路をひたすら西に向かって走った。バイクの機械的な速度が妙に心地よいのは何故だろうか。僕はそのことにふと不安をおぼえた。
やがて僕がいつものように渚に着くと、期待していた通り裸のイルカが僕を待っていてくれた。
「やあ、わかってたんだね」
「ええ、あんまり暑い夜だから・・・」
僕は着ていた服を砂浜の上に脱ぎ捨てると、少し強引にイルカを抱き寄せた。イルカは何も言わずに、僕に身を委ねた。
僕とイルカのセックスはとても涼しい。僕は自分の中の『熱』を冷ますために彼女と身体を重ね合う。それがそもそもイルカたち一族のセックスの流儀であり、僕はそれを必要としていた。特にこんな暑い夜には。
やがて僕らはほとんど同時に果ててしまった。と、イルカは僕の腕の中で小さく呟いた。
「また、夏が来たのね」
「うん」
「でも、夏はあっと言う間に過ぎていく」
「・・・」
「そうするとまた逢えなくなるのかしら」
「そんなことはないさ」
「でも、寒くなるとあなたはここには来なくなるわ。きっと」
「・・・」
まだ夏が始まったばかりだというのに、何故イルカがそんなことを言うのかがわからず、僕は黙り込んでしまった。イルカは少し笑みを浮かべると、静かに立ち上がって天を指した。
「ほら、見て!」
彼女の指し示すところには、街明かりの中では決して見ることのかなわないイルカ座の星々が輝いていた。僕はうなずき、イルカに並んで立った。
「あれが、ポセイドーンがアムフィトリーテーに求婚した時に、彼を運んだイルカよ」
「なるほど。それでトリトーンが生まれるってわけだ」
「ええ、そう」
イルカは星の話が好きだ。今時、こんな女の子はいない。
「イルカ・・・」
その時、僕の目を見つめたイルカの瞳はとても澄んでいて素敵だった。だから、僕は彼女の唇にキスをした。それはとても長いキスだった。
キスが終わると、イルカは再び僕の目を見つめ直し、やがてハッキリとした声で話し始めた。
「ねえ、あなたはしばらく私と逢えなくなっても平気よね」
僕が冬の間は浜まで通ってこないことに対する当てつけなのだろうか。僕がそう思って黙り込んでいると、イルカは続けた。
「この夏、あなたはもう私には逢えないと思うの」
「どういうことだい?」
「イルカの星から『声』が届いたの。それで、私はこれから西の方に向かって、とても長い旅をしなければいけないのよ」
「何だって?」
イルカは少し戸惑いを見せながらも、すぐに気を取り直し、毅然とした口調で続けた。
「かつて、あなたたちの一族と私たちの一族は一つだった。でも、お互いの遠い祖先たちが『熱』に浮かされたように陸に上がった後で、私たちの一族の祖先だけは再び海に戻ることにしたの。それは、彼らが『熱』の恐ろしさを知ったからよ。そこから、陸に居残ったあなたたちの一族と、海に戻った私たちの一族には違いが生じたのね」
「知っているとも。だから、僕は自分の『熱』を取り除くために君が必要なんだ」
「わかってる。あなたが私を必要としていることは。でも、それって本当はあなたが自分自身で解決しなければならないことなのよ」
「・・・」
そう言われて僕は黙り込むしかなかった。僕はいつもイルカと抱き合いながら、心のどこかで彼女を利用しているのではないかという後ろめたさを感じないわけではなかったのだ。でも、彼女も僕のことを愛しているのだからと、いつもさりげなく自分の行為を正当化してきたことは事実なのである。
「あなたは罪悪感をおぼえる必要などないのよ。だって私もあなたと抱き合っている時間は大好きなのだから」
彼女は僕の心の中を見透かしたようにそう言った。
「でも、ごめんなさい。もう行かなくてはならないの」
「いつ、この浜に戻って来るんだい?」
「それはわからないの。場合によってはもう戻って来られないかも知れないし」
「それは困るよ、イルカ」
「もし、あなたがどうしても私を必要としているのならば、あなたは私と再び巡り会うことが出来ると思う。もちろん、私もそうなりたいと願っているけれど」
僕の頭の中はとても混乱していた。イルカがいなくなってしまったら、僕は自分の中の『熱』をどうやって冷ましたらいいんだろうか。今まではイルカが当たり前のようにいてくれたから、そんなことは考える必要もなかったけれど、いざイルカが僕の前から姿を消すとなると急に不安になってきてしまう。とても身勝手なようだけれど、それが僕の本音なのだ。
「さよなら」
イルカはそう言うと、もう沖に向かって泳ぎ始めていた。僕はもっとたくさん話したいことがあるような気がしたのだが、何を言ってよいのかわからず、砂浜に呆然と立ちつくしていた。
夜空には無数の星たちが煌めいていたが、今夜はやけにイルカ座の輝きが目に沁みる気がした。
* * * * * * * *
靄の中から誰かがこちらに近づいてくる気配を感じて、慌てて目を開けたら、そこには心配そうに僕をのぞき込むジョージの姿があった。防波堤の上から砂浜を見ると、さっきよりも潮が少し引いており、僕はかなり長い時間眠っていたことに気づいた。
「ごめんよ、ジョージ」
僕がそう言いながら頭を撫でてやると、ジョージはようやく安堵の表情を浮かべて尻尾を振りはじめた。
沖に浮かぶ島の向こうに、水平線は遙かに遠く、浜に打ち寄せる波はどこまでも穏やかだった。イルカはこの海のどこへ向かって行くというのだろうか。僕は自分の身体の中にまだ残っているイルカの感触を確かめるように抱きしめながら、しばらく海を見つめていた。
(1987年作)
※参考記事
拓海広志「イルカ☆My Love」
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