拓海広志『イルカ☆Her Mother』
イルカの母親だと名乗る女性が訪ねて来たとき、僕はもうナイト・キャップのスコッチを飲み始めていた。秋も終りに近づいた、ある金曜の夜の話だ。死にそびれた庭の虫たちのかすれ声が聞こえる中、僕たちはリビングのソファーに腰を下ろして対峙した。
「娘が私の前から姿を消してからもう三月になります」と母イルカは言った。
「それはお気の毒ですね。そう言えば、僕も彼女とは夏に海で逢ったきりです」
「それでは、あなたは娘の行方を知らないのですか?」
「ええ、知りません」
「何か心当たりも?」
「残念ながら全く」
「それは弱りましたね・・・」
母イルカが本当に弱りきった表情を浮かべて考え込んでしまったので、僕も気の毒になったが、知らないものは仕方がない。
と、母イルカはソファーの脇に置いてあった大きなバスケットを取り出すと僕に差し出し、真剣な面持ちで言った。
「これで勘弁していただけないでしょうか?」
僕がバスケットを開けてみると、そこにはキンメダイにヒラメ、イセエビ、ワタリガニ、アワビ、ハマグリなど新鮮な魚介類がぎっしりと詰め込まれていた。
「どういうことなんでしょうか、これは?」
「あの娘は私の一人娘なんです。特に五年前に主人が亡くなってからは、私にとってはたった一人の家族なんですよ。これと引き換えに何とか・・・。お願いです」
母イルカはその目に大粒の涙を浮かべた。僕は呆気に取られ、これは本当に知らないということを説明するのは大変なことだぞと思った。
「まあ、落ち着いて話しましょう。あなたもよかったらどうぞ」
僕は彼女にもグラスを渡し、スコッチを注いでやった。
「ありがとう」
「水割りにしましょうか? 僕はいつもストレートなもので」
「いえ、私もそのままでいいの」
意外なことに母イルカの涙はあっけなく乾き、僕らはカチンとお互いのグラスを重ねた。
彼女は持ってきた魚や貝を調理するから先に飲んでいてくれと言うと、キッチンに入って行った。
「いえ、手伝いますよ。魚料理は慣れてますから」
僕もそう言って彼女の後に続いた。これは何だか長い夜になりそうな気配だ。
こうして出来上がったのは、ヒラメとイセエビの刺身、ワタリガニの蒸篭蒸し、キンメダイの煮付、アワビのバターステーキ、ハマグリの吸い物・・・。いずれも簡単な料理ばかりだが、素材がいいのでとても美味そうだ。
僕らはそれを肴に飲みながら、イルカ失踪事件について語り合ってみた。こういう議論を行うときは、まずあらゆる予断や偏見、思い込みを排することが肝要だ。
そこで達した二人の共通見解は、彼女の失踪にはイルカ自身の意思が半分あるということ。でも残りの半分は、彼女は何か大きな力に引き寄せられていったのではないかということだった。そこまでのコンセンサスが取れて僕は嬉しかった。
それにしても、母イルカは思っていた以上に酒好きな人のようで、スコッチのボトルは既に二本目に移っていた。
酒が進むにつれ、何故か彼女の目つきや仕草が妙に艶っぽくなり、それがちょっと不気味な気もしたが、僕らは夜明け近くまでグラスを傾け、語り合った。
やがて母イルカはソファーを移動して僕の隣に座り直すと、僕の目を見つめてこう言った。
「それでは、あなたは本当に娘のことを知らないわけですね」
「はい。断言します」
「わかりました。しかし、あなたにはそれなりの責任を取ってもらわなければなりませんよ」
「責任?!」
「そうです。責任です」
「・・・?」
僕がイルカの失踪についてどんな責任を負っているのかよくわからなかったが、母イルカはキッパリとそう言い切った。それはもうガリレオの前で天動説を説く司教の如くである。
「三ヶ月の猶予を与えましょう。その間に私のもとへ娘を連れ戻してください。そうでなければ・・・」
「そうでなければ?」
「どういうことになるかはわかってますね」
母イルカはそう言うと、軽くウィンクして僕の太股を指でつねった。僕は全身にぞくっと寒気を感じ、まったく納得できないにも関わらず、何も言い返せなくなってしまった。
「それでは、待ってますよ。契約は成立しましたからね」
そう言い残すと、母イルカは薄明るくなってきた街から逃げるようにして去って行った。実に鮮やかな退出だ。
「契約? やれやれ、厄介なことになったもんだな」
新聞配達人がポストに新聞を放り込む音がした。もう今から眠ろうとしても眠れないだろう。
僕は熱いシャワーを浴びてから、朝食にヨーグルトを食べ、トマトジュースを飲んだ。それからコーヒーを飲みながら頭を抱えてみた。
「いったい、どこをどう捜せばいいんだろう?」
僕はとりあえず街に出て、イルカの行きそうな場所をあたってみることにした。せっかくの休日が台無しになり、ちょっと気が重かったが、何か行動を起こすしかなさそうな気がしたのである。
(1987年作)
※参考記事
拓海広志「イルカ☆My Love」
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