拓海広志『悲しき熱帯』
「駄目、ただ抱かれていたいの・・・」
首筋から胸元にかけて軽い愛撫をはじめた僕に対し、彼女は身を固くしてそう言った。
ほんの二時間ほど前には僕らはチャイナタウンの大きなレストランにいた。明後日にはもうこの街、この国とはお別れだ。
半年前、無一文でこの街にたどり着いたばかりのときはこんなにたくさんの友人ができるとは思いもしなかったが、今夜は三十人近い仲間が集まってくれた。
彼女はこの国に滞在して久しい。ジャカルタでの高校時代、華人に対して起こされた小規模の暴動で親友を殺され、傷心のままシドニーに渡って来たと言う。
僕よりも二つ年上の彼女は、その国からやってきた若い連中の精神的な支柱のような存在でもあった。
僕に始めて会ったとき、彼女は「日本の若い男性にはいつも失望ばかりだわ。哲学や思想はもちろん、政治や経済にすら興味がないのだから」と言った。
話もしない内にいきなりそう言われた僕は、少しカチンと来ながらも妙に納得したのだが、驚いたのは美人で聡明だがインテリ過ぎて面白みのない女性だと勝手に思い込んでいた彼女が、実はとても可愛い娘だということにやがて気づいたときである。
ある日、彼女は僕を自分のフラットに招待してくれた。自分の国の料理を作ってご馳走してくれると言うのだ。僕はお礼にとワインを下げて出かけた。
フラットの入口で僕を迎えてくれた彼女はいつもと違う民俗衣装を身にまとっていてきれいだった。
僕はスティービー・ワンダーのカセットをBGMに、下ごしらえしていた料理に火を通す彼女のうしろ姿を眺めていた。
何だかとても居心地がよく、僕はずっとこうして彼女が料理を作る姿を見ていたいような気分だった。
やがて出来上がった料理はスパイスが効いていて美味く、僕が誉めると、彼女は「外国人向けの薄い味付けよ」と言い、自分はチリを生のままかじっては料理を口に運んだ。
僕は唖然としてしまい、しばらく彼女が食べるのを見つめていたのだが、やがて彼女は僕の視線の意味に気づいたらしく、急に顔を真赤にしながら「見ないで!」と言い、僕を軽く叩く真似をした。
僕は笑いながら「ゴメン、ゴメン」と謝り、それでも辛いチリをむしゃむしゃかじる美人という構図が面白く、つい彼女の口元に目が行った。
突然、彼女が思い出したように「ねえ、冷蔵庫の中にサラダを作って置いてあるの。出してくれない?」と言った。
僕は「OK」と言って立ち上がると、サラダを取り出してテーブルの上に置いた。
そして、僕は席に戻り、自分の皿に取っておいた羊の焼肉を口に運んだのだが、その瞬間口の中にパニックが起こった。
貧血のときに目の前が真っ白になる、あの感じが一瞬口の中に起こり、次の瞬間には燃えるような熱さが拡がったのである。
「HOT!」−僕はそう叫んだ。「辛い」と「熱い」は正に同義だと、僕はこのとき実感した。
彼女は舌を出してヒーヒー言っている僕を見て、「ゴメンナサイ」と悪戯っぽく笑った。
どうやら僕が冷蔵庫からサラダを出している間に、僕の羊肉に生チリの塊をどっさり挟み込んだらしいのだ。
「ひどいことをするなぁ・・・」
僕の口の中では火がますます燃え広がっていった。彼女も少し心配になったらしく、冷凍庫からアイスクリームを出してきてくれた。
僕はアイスクリームを大量に口に含んでゆっくり解かしながら、口の中の熱を冷ましていった。
やっと笑顔を見せる余裕のできた僕に彼女もホッとしたらしく、僕の顔をのぞき込みながら済まなそうに笑った。僕はそのときの彼女を「可愛い」と思った。
彼女は僕にピタリと身をすり寄せていた。僕は彼女に拒否され、もてあまし気味の右手で彼女の柔らかい髪を撫でながら、この国を出たら彼女の国へ行こうと考えていた。
僕はここを後にしてシンガポールへ向かうのだが、そこで安い切符を探し、それを手に入れたらジャカルタへ行くんだ。
彼女は自分の国のことを語るとき、「美しい国よ」と言いながらも悲しそうな顔を浮かべる。
ジャワ人の父、華人の母に育てられたものの、中国語や中国の習慣は全て否定された子供時代。
反=中国の学生運動に身を投じたりもしながら、華人の親友ができた高校時代。そして、その親友の死。
彼女の心の中には僕には推し量りきれぬほどたくさんの複雑な思いがあるのだろう。でも、僕はとにかく彼女が生まれ育ったその国を見たくなったのだ。
チャイナタウンのレストランではいつになく飲みすぎた彼女が、僕の「踊らないか?」という誘いに従った。
僕らはお世辞にも上手とは言えない中国人バンドの演奏に合わせて、これまたかなりぎこちないステップで踊っていたのだが、やがてそれは場違いなチークになってしまった。
そのうちに、僕らを冷やかしていた仲間たちも皆踊り始め、最後にはフォークダンスの「マイムマイム」のように全員が手をつないでの賑やかな踊りになった。
中国人のバンマスがリクエストを求めてきたので、僕が彼女にふると、彼女は「ブンガワン・ソロ」という古いクロンチョン・ソングを頼んだ。
僕はその美しい旋律を聞きながら、彼女の国に行ったら小舟でソロ河を下ってみようと考えていた。
やがて、僕がその国を去る日がやってきた。空港まで見送りにきてくれた友人は十人ほどで、その中には彼女もいたが終始黙り込んだままだった。
ちょうどその日はサマータイムが終わる日だった。僕がこの国に来て間もなくサマータイムに入ったので、僕が彼女に「俺は夏と共に去るぜ」と言って気取ると、彼女は「あなたはこれからもっと暑い熱帯に行くんじゃないの?」と言った。
それを聞いて僕がうなずくと、彼女は小さな包みをくれた。「飛行機の中で開けてね」。
飛行機の離陸時間が迫ってきた。誰が教えたのか冗談好きのスイス人が音頭を取って僕への「バンザイ」が三唱される。
「おい、恥をかかせるなよ!」
飛行機が飛び立ってからしばらくの間、僕は眼下の街や海岸線、海を眺めていた。この街や海で過ごした半年間のことが思い出されて、何だか胸が熱くなってきた。
僕は彼女からもらった包みをそっと開いてみた。そこには一枚のカードが入っていたが、その中には悲しそうに涙を流すピエロの絵が描かれており、下の方には彼女の名前が小さく書かれていた。ただ、それだけである。
僕がもう一度窓から下を見下ろすと、飛行機はもう雲に包まれてしまっており、何も見えはしなかった・・・。
(1986年作)
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