拓海広志「キラキラ日記帳(4)」

 これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。


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★某月某日

 この夜も前夜と同じ顔ぶれでの夕食となる。今夜は森川修さんが経営している「寿司錦」という寿司屋へ行ったのだが、森川さんは出来るだけ地元の魚を使うために西ジャワ中の海を駆けめぐって仕入ルートを開拓し、またインドネシア人の板前たちを鍛え上げることによって、低価格で美味しい寿司を提供している。「食を通じての民間交流」を目指す森川さんから教わるものは多い。

 ちなみに、僕は学生時代にオーストラリアと東南アジアを放浪していた時期があるのだが、当時シドニーで一人のインドネシア人女性(華人)と知り合っている。実は、この女性がいつの間にか森川さんの奥さんとなっており、初めて「寿司錦」で彼女に出会った時は本当にビックリしてしまった。全く世の中は狭いものである。

 この夜はハッジ・ムサさんの「憂さ晴らし」をしようということになり、「寿司錦」を出た後、まずジャズ・クラブへ行き、それからカラオケ・スナックへ行くことになった。僕も神戸ではよく中山手〜北野界隈のジャズ・バーに通ったものだが、ジャカルタのジャズ・バーの良いところはグラス一杯のビンタン・ビールで好きなだけ店に居座っていられることだ。

 とは言え、ジャカルタのジャズ・クラブでたむろしている若者たちは、ユディスティラ・マサルディ氏描くところの『アルジュナは愛をもとめる』に登場するアルジュナ君みたいな連中ばかりなので、純粋に音楽を楽しむにはいささか騒々しくて、少々いかがわしい雰囲気もある。まあ、そういう雰囲気も含めて楽しめればそれでいいのが・・・。


★某月某日

 昨夜がかなり遅かったので朝10時頃に起床し、我が家に一泊された秋道さんと一緒にムアラ・バル及びアンチョールの魚市場を散策する。秋道さんは明日のフライトでデンパサールへ向かい、バリのウミガメ食と流通について調査されるそうだ。

 バリの人々は海を忌まわしいもの、賤なるものとして捉える世界観を持っているのだが、ウミガメの肉については好んで食べており、その多くは南スラウェシのウジュン・パンダン(マカッサル)あたりから運ばれてくるという。

 魚市場の散策を終えた僕たちは鶴見良行さんが泊まっているホテルへ寄って同氏をピックアップした後、中島保男さんのお宅に向かった。今日は中島邸にて「国際バジャウ・セミナー」の打ち上げパーティーが催されるのだ。

 参加者の顔ぶれは鶴見さん、秋道さん、中島さん、僕の他に、村井吉敬さん、内海愛子さん、門田修さん、福家洋介さん、上杉富之さん、ハッジ・ムサさん、床呂郁哉さん、長津一史さん、島本照美さんらで、かなり盛況だった。

 何しろこの顔ぶれだけに、海の話、アジアの話、NGOの話、ODAの話と、話題は尽きなかったが、特に村井さんは日本のODAの問題点について熱く論じられ、『スンダ生活誌』、『スラウェシの海辺から』、『エビと日本人』などの同氏のご著書を愛読してきた僕も改めて学ぶことが少なくなかった。

 戦後の復興期から高度成長期、バブル期を経て今日に至った日本だが、バブル崩壊後の不況下において自らのサバイバルのためにアジアに拠点を移した日系企業は少なくなく、そうした企業も人もこれからは進出先にどっしりと腰を落ち着けてやっていかざるを得ないのではないかと思う。そんな中で日本政府がアジア諸国に対して行っているODAのあり方についても、僕たちはもっときちんと見ていく必要があるだろう。

 中島邸でのパーティーが終わり、僕は鶴見さんを車でホテルまでお送りした。かつては知米派知識人の一人だった鶴見さんがベトナム戦争を契機にアジアへの関心を高め、独学で「歩くアジア学」を始められたのは40歳を過ぎてからのことなのだが、その成果は大著『ナマコの眼』にて見事に結実している。鶴見さんは口癖のように「学問なんてどこにいても出来る。しかし、学問のための学問になっちゃダメだ」と言われるのだが、本当にその通りだと思う。


★某月某日

 朝起きて「ジャカルタ・ポスト」に目をやると、第一面(政治・社会面)にいきなり面白い記事が載っていた。それはインドネシア警察学校が著名な法律家や学者、裁判官、警察幹部、ドゥクン、そして黒魔術の被害者たちをジャカルタに集め、「黒魔術対策についてのセミナー」を催したというものである。

 インドネシア、とりわけジャワは神秘思想の影響の強いところで、ジャカルタのオフィス街を颯爽と行くビジネスマンたちも一皮剥けばそういう感性を持っている。ちなみに、ドゥクン(dukun)というのはジャワの呪術師、呪医、祈祷師の総称で、彼らの存在は西欧型知識人からもイスラム指導者たちからも一応は否定されているのだが、実際には巷間に数多く存在しており、人々の生活に大きな影響を及ぼしている。

 「ジャカルタ・ポスト」の記事を題材にしてあれこれと考えているところに、床呂郁哉さんから電話がかかってきた。彼は「国際バジャウ・セミナー」のあと、門田修さん、ハッジ・ムサさんと共にスェラウシを巡っていたのだが、今朝ジャカルタに戻ってきたところだそうで、明朝にはコタ・キナバルに向かい、サバ州のバジャウ集落を訪ねて回る予定なので、今夜は一緒に飲もうとのことであった。

 僕の方は先週末に日本に飛んで那智山青岸渡寺を訪ね、副住職の高木亮英さんのお宅に泊めていただき、熊野修験のお話などをうかがってきたところだった。そこで、今夜は僕が太地で仕入れてきた鯨肉などを肴に大いに飲もうということになったのである。

 床呂さんは慶応大学で修験道研究の大家・宮家準氏の教えを受けたあと、東大の大学院に転じてバジャウ研究を始めている。人が移動するということ、またその過程で新しい環境にどう適応していくのかということは僕にとっても大きな関心事であり、かつて「人は何故海を渡るのか?」というテーマのシンポジウムを開催したことがあるのだが、その点において僕は床呂さんの研究に対しても非常に関心を持っている。

 二人で缶ビールを20数本空けながら語り合った中で、お互いの関心が一致したことの中に「ヨーロッパ再考」ということがあった。「アジア」という言葉はヨーロッパ人が作り出したものだが、それには発展史観に基づく歴史概念的な要素が強かったため、かつてアジアの文化を学んだ者はまずそのあたりを打破しておく必要があったのだと思う。そこから「アジアの多様性」などという問題提起もされてきたのだが、それを言いたいがためにヨーロッパをあたかも一枚岩の均質的な世界の如くに仮定すると、これは大きな間違いとなろう。

 亡くなった哲学者の坂本賢三さんはよく「『ヨーロッパ的』とか『キリスト教的』といった曖昧な言葉だけで近代科学や近代社会の思想、原理を語ったつもりになるのはよくない」とおっしゃっていたが、僕もそう思う。今さらケルトの話を持ち出すまでもなく、ヨーロッパは表層的にも深層的にも多様性に富んだ世界である。僕たちはアジアの多様性について語るのと同じくらいの熱心さで、ヨーロッパの多様性についても考える必要があるだろう。

 また、話が「国際バジャウ・セミナー」のことに及ぶ中で、「差別」に関する話題も出た。バジャウに限らず、海人や漂泊民が差別の対象となりやすいのは洋の東西を問わず共通しており、そういう「差別」の問題を無視して海のことを語ることは出来ない。

 日本の場合は、インドで既にヒンドゥー化しつつあった時期の仏教を古代の貴族たちが鎮護国家のための宗教として招来したことと、それに由来する賤民思想が律令制の中で制度化されたことにより、山・川・海の民、あるいは職人、商人、芸人、呪術者(初期の遊女を含む)、運輸・交通に携わる人々などが次第に差別の対象になっていったわけだが、一般のイメージとは異なって、こうした賤民層の占める人口比はかなり大きく、日本の歴史や文化を動かしてきた巨大な地下水脈がこうした人々であったことは今さらながら認識しておく必要があるだろう。

 中世日本において親鸞の『悪人正機説』が革命的であったのは、彼がこうした賤民層の中でも最も下層にいた悪人たちを取り上げた上で、「悪人であっても救われる」という考えをさらにラジカルに押し進め、「悪人だからこそ救われる」と言い切ったことにあるだろう。

 もっとも、日本の身分制度はインドのカースト制度などに比べるとかなり柔軟で、だからこそ出自の怪しい武士が天下を取ったりすることもできたわけだが、それを固定的なものとして制度化したのが徳川吉宗であった。

 吉宗と言えば紀州家出身の将軍だが、紀州徳川家は初代の頼宣以来かなり詳しく領民の生活事情を調べ上げてきたことで知られている。紀州家が睨みをきかせていた熊野は正に山・川・海の民が住み、漂泊民や遊行者たちが行き交う土地でもあったわけだが、吉宗が紀州で何を学び、またその経験を江戸でどう活かしたのか、大いに関心のあるところだ。

 ・・・と、そんな感じの四方山話で盛り上がり、ジャカルタの夜はアッと言う間に更けていったのである。


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