拓海広志「キラキラ日記帳(6)」

 これは今から10数年前のある年の11月半ばから翌年の1月初旬にかけて、インドネシアで書いた日記からの抜粋です。


   *   *   *   *   *   *


★某月某日 

 朝4時に起きて中央卸売市場へ向かい、魚市場で競り(せり)の様子をのぞいてみた。対象となるのは主としてマグロやカツオだが、なかなか活気があって楽しい。仲買人と小売商が入り混じって買い付けをするのはインドネシアの地方都市の卸売市場ではよく見られる光景だが、ここでも小売商の中には競り落としたばかりの魚を持って、市場の周囲に設けた露店の開店準備に余念がない様子だった。

 市場から引き揚げると、欧米人がよく利用しているダイビングショップを見つけたので、そこへ行き飛び込みでツアーに参加させてもらうことにした。マナド沖にはウミガメの産卵場としても有名なブナケン島があるのだが、その周辺はダイビング・スポットとしても評価が高く、僕も急に海に潜りたくなったのである。

 この日はブナケン島沖の珊瑚礁の海(水深10〜20メートル)に2本潜ったのだが、色とりどりの熱帯魚たちに加えてへコアユ、ケショウフグ、黄色のへラヤガラ、五色エビ、そしてウミガメにも出会うことができ、久々の水中散歩を楽しむことができた。ブナケン島のすぐそばにはシラデン島が浮かんでいるが、この島は昨日会ったジョン・ラハシアさんが所有しており、僕は明日氏の案内でこの島を訪れることになっている。


★某月某日

 今日も早朝から中央卸売市場に向かう。市場や簡易食堂の人々はもう僕の顔を覚えてしまっており、あちらこちらから声が掛かる。

 この日僕は昼過ぎのフライトでマカッサル(ウジュンパンダン)に向かう予定なのだが、ジョン・ラハシアさんの誘いを受けて午前中にシラデン島を訪ねることになっており、サムラチュランギ大学のエディ・マンチョロさんと息子さんが僕を迎えに来てくれた。エディーさんにとってもシラデン島に渡るのは初めてのことだそうで、僕たちは市場の裏手を流れる川の河口でラハシアさんと落ち合い、氏が手配したボートに乗り込んだ。

 ラハシアさんの祖父はミナハサ半島とミンダナオ島の間に浮かぶサンギール島の貴族だったそうである。かつて、マナド沖に浮かぶシラデン島はサンギール人の領地だったのだが、マナドのラジャにこの島を統治させようとするオランダの思惑に反対したラハシアさんの祖父は仲間5人と共にマナドに押し掛け、1886年にラジャから島を買い戻したという。その後、1960年代半ばにラハシアさんは島の土地の約8割を買い取り、島固有のエコロジカル・バランスを保ちながら、約260人の島民たちの生活をも守り続けている。

 島の中にはラハシアさんの生家があり、氏の写真や蔵書が保管されている。島の大半は森になっているが、海岸沿いにずっと歩いていくと30分ほどで島を一回りできそうだった。ラハシアさんは森の中を歩きながら、「この森の一部を落花生の畑にしてみようかな」と言って悪戯っぽく笑った。

 実はこの話には前置きがあり、氏がまだ若かった頃にマナドを侵略してきた日本軍の将校が人々に対して「我々は諸君がオランダから独立するのを助けにやって来た同志なのだ!」と演説したのでいったん感動を覚えたのだが、その後ラハシアさんが仲間たちと一緒に好物の落花生を食べていたところへ若い日本兵がやって来て「貴様たちは猿と同じだな!」と怒鳴りつけられたので、すっかり幻滅したというのである。

 島のはずれにはラハシアさんがニュージーランド人の探検家ボブ・ホブマンさんに貸している家がある。ボブは大型カヌー「サリマノック」によるフィリピンからマダガスカルまでの実験航海を終えたあと、次はここシラデンからフィジーまでの航海を計画しており、それに使うカヌーをここで建造中なのであった。

 残念ながらボブは資金調達交渉のためにオーストラリアに渡っていて不在だったが、家のそばのカヌー小屋には作りかけのカヌーの本体(全長約12メートル)が横たわっていた。彼の航海が実現することを願ってやまない。


★某月某日

 マカッサル(ウジュン・パンダン)の朝は早い。日の出前に起床して魚市場まで散歩をしたのだが、街は行き交うべチャ(人力三輪車)で賑やかだ。ここの魚市場はマナドのように卸売市場とは隣接しておらず、魚種もサバヒー(イカン・バンテン)とウシエビがやたら目につく。まるで、サバヒーの間に埋もれるようにして他の魚が並んでいるといった印象なのだが、一応目についた魚をあげてみると、シイラメバチムロアジ、ダツ、カツオ、コショウダイ、マナガツオ、リーフ・スティングレイ(アカエイの一種)、ナマズ、ガザミといったところ。

 マカッサルと言えば東インドネシア各地から海産物が集まってくることで知られる町だ。その流通に興味を持っている僕が宿のお兄さんに海産物問屋を紹介してほしいと頼んだところ、地図を出してきて「ここへ行け」と親切に教えてくれた。ところが、こういうことはインドネシアではよくあることで、この情報は真っ赤なウソであった。

 お兄さんに教えられた地区は繊維問屋街になっており、とても海産物を扱う店があるように思えなかったが、僕がキョロキョロしていると洋服屋から華人若い女性が出てきて「どこへ行きたいの?」と訊ねてくれた。僕が事情を話すと、彼女は親切にも「ここにはそんな店はないけど、私の友人が海産物の仕入れをやってるから、そこへ連れて行ってあげるわ」と言ってくれた。

 インドネシアでは華人たちは何かと目の敵にされることが多いので、彼らの経営する商店や工場あるいは住居は間口が非常に小さく、ついつい見落としてしまうほどだが、その奥行きはかなり広い。彼女が案内してくれた店もその例にもれず、入口は狭く殺風景なのだが、奥に入るとなかなか広く、店の屋上には何種類ものナマコとフカヒレが所狭しと干されていた。この店は各地から集めた海産物を国内市場に卸したり、輸出しているそうだが、こうした海産物卸・輸出商はパオテレ港付近と華人の商店が多いヌサンタラ通りに幾つかあるそうだ。

 昼過ぎに友人の奈須督勝さんがはるばる東京からジャカルタ経由で駆けつけてきたので、彼と一緒にべチャに乗り「フォルト・ロッテルダム」の名で知られる博物館に足を運んだ。ここはオランダの植民地時代の要塞跡を利用した博物館なのだが、展示物の内容は予想以上に充実しており、なかなか見応えがあった。特にスラウェシ各地で使われている漁具や舟の数々には目をひかれた。

 博物館を出た僕たちはパオテレの港に向かった。ここはジャカルタのスンダ・クラパ旧港に対応するピニシの専用港である。ピニシとはカリマンタンの材木をジャワのジャカルタやスラバヤ、セマランへ運んだり、ジャワの米や日用雑貨を東インドネシア各地に運ぶのに使われている機帆船で、その船員の多くは南スラウェシのブギス人、マカッサル人たちだ。

 パオテレ港の近くには船具屋、海産物問屋などが数多くあった。海産物問屋の一つをのぞき、若い華人の店員に話しかけてみたところ、彼は「倉庫を案内してあげよう」と言ってくれた。この店は典型的な輸出商で、倉庫には袋詰めにされたアガル・アガル(テングサの一種)が山積みにされており、韓国向けにボタンの材料として輸出される高瀬貝やアコヤ貝も半端な量ではなかった。

 倉庫の屋上に出てみると約20メートル四方の床の上いっぱいに十数種類ものナマコとフカヒレが干されていたが、その大半は香港と台湾向けに出荷されるという。ナマコとフカヒレの相場は香港で決まると言われており、アジア太平洋各地の商人たちはその相場を睨みながら出荷していくのだ。

 夕方、ぶらぶらと海岸通りを散歩し、浜に出ていたワルン(屋台店)で生ぬるいビールに氷を入れて飲みながら、ソト・アヤム(インドネシア風のチキン・スープ)、レレ(ナマズ)の唐揚げ、ガドガド(温野菜サラダ)などを食べた。

 奈須さんはかつて仕事で訪れたインドネシアに魅せられ、今回は僕の旅に合流するためにわざわざここまでやって来たのだが、二人でビールを飲みながら夜空を見上げると、天の川がマカッサル海峡に注ぎ込むかのように美しく輝いていた。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【ジョン・ラハシアさん。シラデン島にて】



【パオテレ港にて】


Link to AMAZON『海のYeah!!』

海のYeah!!

海のYeah!!

Link to AMAZON『フィリピン・スールーの海洋民』
フィリピン・スールーの海洋民―バジャウ社会の変化

フィリピン・スールーの海洋民―バジャウ社会の変化