拓海広志「初めてのヤップ(3)」

 アルバトロス・クラブが発足してからまだ間もない1989年の初夏に、僕は岡山県高梁市の医師・野村勲さん(岡山ヤップ会)宅で、ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島から来日中だったベルナルド・ガアヤンさん、ジョン・タマグヨロンさんと出会った。彼らはヤップに伝わるシングルアウトリガーカヌーの建造術と航海術を再現したいという思いから「ペサウ」という名のカヌーを建造し、1986年にヤップ〜小笠原父島間の航海を成功させた人たちだ。


 学生時代から太平洋のカヌー建造・航海術に興味を持っていた僕と彼らの話は弾み、二人と別れた後も僕はカヌーについての情報収集と研究を続けた。そして、翌1990年の6月末、僕は彼らと再会するためにヤップを訪問した。これは極私的な旅だったが、結果的にはこの訪問を契機として「アルバトロスプロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海の再現プロジェクト)」が発足へ向けて動き出すこととなる。このときの旅の話を、当時の日記からの抜粋で紹介したい。


  *  *  *  *  *  *  *


※6月26日(前編)

 朝、鶏の鳴き声で目が覚めた。ガアヤンの家はもちろんのこと、ウォネッヂ村の至る所を鶏や犬、豚がうろついていて、朝になると大騒ぎだ。僕が小屋から顔を出すと、ガアヤンはもう起きて雑貨屋の前の長椅子に腰掛けていた。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「はい」
「さっきフェティックが来て、あなたに謝ってほしいと言ってました」
「何かあったのですか?」
「フェティックは万一に備え、あなたを守って小屋の前で寝ずの番をするつもりだったのです。ところが昨晩は飲みすぎてしまい、熟睡してしまったと言うのです。どうも申し訳ないことをしました」
 僕もこれには驚いてしまった。
「そんな、僕のために一晩中起きているなんて止めてください。ここで僕の身に何かが起こるなんて考えられませんし、仮に何かあってもそれは僕の責任です」
「いや、別に何かが起こるとは思っていませんよ。これは万一に備えてのことで、フェティックはそういう男なんです」
 ヤップ男のあるべき姿にこだわって生きているのがフェティックだが、まさかそんなことまで考えていたのかと、頭が下がった。と、そこへタマン少年がやって来た。
「カファロ(こんにちは)、タマン。ハゥアー・ユー?」
 タマンが照れた顔をして僕を見た。彼は小学校で英語を教わってはいるものの、まだ上手に会話を交わすまでには至っていないのだ。挨拶の代わりに、タマンは手に持っていたものを僕に差し出した。それは、ボラオー(ハテルマギリ)の花を使って、今作ったばかりのレイだった。
「ヤップではそれをノヌと呼びます」とガアヤンが言った。
「カマンガール(ありがとう)、タマン」と、僕は昨夜習ったばかりのヤップ語を連発し、甘い香りのするノヌを首から掛けた。
 僕らがしばし歓談をしていると、隣村の方から数人の集団が大きなトランクを抱えてやって来た。よく見ると、その中の1人はバチュアルのピルンを務めるタマグ・ヨロンさんだった。褌姿のタマグは僕の姿を認めると笑って手を差し出してくれた。
「コンニチハ。ヨウコソ」
 ガアヤンより10歳ほど若いタマグ(64歳)はその分、日本語はあまり得意じゃない。僕はその手を握り返して挨拶をした。
 タマグはその日ハワイの学校に留学する孫娘を空港まで見送りに行くところだった。タマグがガアヤンに何事か告げ、ガアヤンはそれを僕に通訳して伝えてくれる。
「タマグは孫娘との約束で7月から禁酒・禁煙になるそうです。だからあなたが来たのが6月で良かったと言ってます。来月になると一緒に飲めませんから」
 タマグは「クックック」と笑いながら、僕の肩を力一杯叩いた。去年高梁で初めて会ったときは、ずいぶん無愛想な人だなぁと思ったが、ヤップの空の下で会うと別人のように陽気だ。
 タマグは時間がないからとすぐに空港へ向かい、僕は朝食を食べながらまたガアヤンと話を始めた。ガアヤンはタマグの孫娘の出発を見送って思い出したのか、日本に留学している自分の孫娘ラロゥちゃんのことを話してくれた。
 ヤップと日本の親善の架け橋にしようと、ガアヤンが孫のラロゥを日本に留学させることを決めたのは、彼女がまだ7つの時だ。埼玉県草加市の知人宅でお世話になりながら小学校に通うことになったラロゥは今ではもう中学2年生になるという。この太平洋に浮かぶ小さな島に住む老人と少女の「隣国・日本」に対する思いを、ちゃんと理解している日本人は一体どれくらいいるのだろうか。
 朝食が終わると僕はバチュアル村へ行ってみることにした。ここにはカルチュアル・センターという名前で大集会所や若衆宿(メンズハウス)、カヌー小屋などが昔のままの状態で保存されているのだ。ちなみに、同センターのセンター長はタマグ・ヨロンさんだ。
 僕はジャングルの間を抜ける細い道を口笛を吹きながら歩いて行った。道を埋める落ち葉はバナナの葉だ。僕が歩くたびにトカゲやマングローブガニ、ヘビや小鳥、カエルなどがガサガサと音を立てて逃げ回る。やがて、どこからともなく子犬が現れて、僕を先導し始めた。
 道沿いには所々に大小様々な石貨(ストーンマネー)が置かれている。そう言えばガアヤンの家の周りにも幾つかあった。石貨は世界一大きな貨幣だが、同時に世界一美しい貨幣だと僕は思う。何故ならば、それは島の人々の「思い」の結晶だからだ。
 石貨の起源について、こんな言い伝えがある。昔、ヤップに2人の若者がいた。2人は他の島に誇れるような宝物を見つけて島に持ち帰る競争をすることとなり、それぞれにカヌーで海に乗り出した。やがて南西に浮かぶパラオ諸島にたどり着いた2人は、満月の夜に月光に照らされて輝く結晶石灰岩(ライムストーン)の石山の美しさに目を見張った。そして、その石を満月と同じ形に切り出して故郷に持ち帰ることにしたのである。
 それ以来、幾多の勇気ある航海者たちがパラオへ向けて旅をした。ヤップには至る所に立派な石貨が見られるようになったが、その航海の途中で遭難して死んだ人や行方不明になった人も少なくはなかった。石貨はそんな「偉大な航海」の象徴であり、名誉ある勲章でもある。だから、文明国の通貨などとは交換不可能なのだ。
 今もなお、ヤップの人々は大きな取引や結婚の結納などには儀礼的に石貨を使う。ガアヤンも「ペサウ」の建造に使用した原木を購入したときは、石貨を用いたそうだ。日常の生活は米ドルに支配されるヤップだが、実は米ドルでは買えないものがまだこの島にはあることを知って僕は嬉しくなった。
 石貨の特徴は、所有者が変ってもそれがずっと同じ場所に置かれたままになっていることだろう。つまり、ある取引が成立して所有者が変ったことを島の人々が了解すればそれでよいのである。
 貨幣とは人類の共同幻想だ。人々がそれに価値を認めなければ、それはただの石ころや紙切れに過ぎない。だが、世界を覆い尽くさんとする高度資本主義は世界中の貨幣に為替による序列をつけ、それに基づく価値観の統一を図っている。今や一種の記号と化した通貨によって、全てのモノ(自然や生物を含む)とサービス(人の生き様や文化を含む)に優劣がつけられるのは癪な話だ。
 しかし、ヤップの石貨は人々が偉大な航海者を称えることによってその価値が生じる。だから、場合によっては航海中に遭難して死んでしまった人々の子孫は、その海の底に沈んだ石貨によって立派に取引が出来るそうだ。貨幣が共同幻想だとするならば、より美しい幻想の方を僕は選びたい。
 そんなことを考えながら15分ばかり歩くと、バチュアルの村に着いた。ウォネッヂよりもこじんまりとした、しかし美しい村である。僕はタマグの孫娘だという少女に大集会所や若衆宿、カヌー小屋などを案内してもらい、お礼にタコの木の皮で編まれた赤ん坊の揺りかごを買った。
 東南アジアや南アジアの多くの地域と同様に、ヤップの人々はビンロウジの実が大好物で、それを少量の石灰と共にキンマ(コショウ科の植物)の葉に包んだものを口の中で噛み砕いては吐き出す。つまり一種の噛み煙草で、老若男女を問わず朝から晩まで人々は口をモグモグと動かしている。
 これを噛んでいると唾液が真っ赤に染まってくるのだが、この唾液を飲み込むと胃に悪いということで、人々は唾液を路上にペット吐き出す。タマグの孫娘もまだあどけない顔をして歯や口の周りを真っ赤に染めていた。
 ところで、腕時計というものを身につける習慣を持たない僕は、世界中どこにいても腹時計だけでやっている。時間は太陽の高さと腹の減り具合で大体の見当はつくものだ。僕がバチュアルからウォネッヂに戻ってきたのは、たぶん正午前くらいだったろう。
 昼食を食べる習慣がない島の人々には午睡をする者が多く、ガアヤンも店の扉を閉めて眠っていた。フェティックやタマンも見当たらないので、僕は1人で浜に出てみることにした。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


Canoes of Oceania

Canoes of Oceania

Wangka: Austronesian Canoe Origins

Wangka: Austronesian Canoe Origins