拓海広志『神戸酔眼』
昼過ぎから降り始めた小雨は、夕方になってもまだやみそうになかった。僕は読みかけのヘンリー・ミラーを閉じて店を出た。
「昼間から喫茶店の隅で読む本じゃないよな」
そうは呟いてみたものの、そいつは僕を少しばかり退廃的な気分にさせていた。
競い合うように着飾って歩く男女の群れを見ながら、僕はポルノ映画に出たために評判を落としてしまった、高校時代の女友達のことを思った。
道徳なんてものは人を傷つけたり、疎外するためにあるのかも知れないな。
何をやってもママゴトみたいになっちまうこの国で、あんまりムキにいじめるなよと、僕はどんよりと曇った空を見上げた。
それから一時間後。僕は中山手にある行きつけのバーでバーボンを飲んでいた。ピアノとウッドベースに女性ボーカルというシンプルな構成のバンドがジャズを聴かせる。
激しさは少しもないが、悪いもんじゃない。こみ上げてくるものを鎮静して、カタルシスを呼び起こすのかも知れない。
曲は"Come Rain or Come Shine"とか"Some Day, My Prince Will Come"なんていう、ビル・エヴァンスを連想させるようなスタンダード過ぎるスタンダードが続いたが、やがて女性歌手がマイクをグラスに持ち替えると、ピアノのアドリブが始まった。
僕はこの店に来ると、いつも「神戸」を思うことにしていた。自然にそう感じる部分もあるのだが、半分は意識的なものである。
十代半ばに僕が書いた小説の舞台がこの店で、そのときの主人公の心理に対応して「神戸」という街があった。
「神戸。どこかしたたかな街だな。いつでも日本をポイと捨てされる身軽さと凄みがある」。
これが当時の僕が主人公に吐かせた台詞である。それ以来、僕はこの店で自分の書いた筋書き通りのドラマを演じてきたのかも知れない。
僕みたいに若い男がカウンターの隅に一人で座っているというのは、そう格好いいものではないだろう。
僕はグラスの中の氷を泳がせながら、待ち合わせを装い、何気なく店内を見渡してみた。
と、そのとき。僕は微かな視線が自分に注がれるのを感じた。女の視線だ。僕はそっとそれを逆行してみた。
彼女は男と一緒に店に来たらしかったが、何故かその視線は男の肩越しに僕に注がれていた。
でも、勘違いしてはいけない。彼女の視線にはこれといった意味はなく、あたかも風景を眺めるがごとく、こちらに向かっているだけなのだ。
二人の間に何があったのかは知らない。しかし、たぶん今の彼女には男の姿は目に入らず、その言葉も耳を通り過ぎているのだろう。
そんなときの女の常は茫然と風景を眺めることであり、今の彼女にとっては僕が格好の風景なんだろう。
自分が誰かの風景にされていることに気づいたときというのは妙な気分だ。
僕は風景らしく、さしさわりのない動きで静かにグラスを口に運んだり、それとなく指でテーブルを叩いてピアノを弾くような仕草をしてみせた。
しばらくそんなぎこちない時間が過ぎていったが、女はまだ僕から目を離そうとはしなかった。艶のある視線だ。
僕はそろそろ男が彼女の視線の行く先に気づくのではないかと、少々不安になってきた。
その時である。男がふと後ろを振り返った。もちろん、女の視線をたどった彼の目に入ったのは僕だ。
でも、僕は男を無視し、何事もないかのようにバーボンを飲み続けた。だって、どうしようもないしね。
立ち上がった男はずかずかと僕に迫り、何も言わずにいきなり殴りかかってきた。
僕は三発までは黙って殴らせてやることにした。だって、それくらいの権利は彼にもあるだろうから。でも、四発目はナシだ。
返礼一発で男を殴り倒した僕を見て愕然とする彼女。僕はもう彼女にとってただの風景ではありえないはずだ。
が・・・、この大いなる想定に反して男は僕を無視し、再び彼女に向かって語り続けていた。彼女は何も聞いていないというのに。
やれやれ・・・。それを見て僕は苦笑すると、グラスに残っていたバーボンを飲み干し、潮時とばかりに席を立った。
店を出ると夕凪の時間はとうに過ぎており、神戸の街の寝息が港へ向けて吹いていた。
そう言えば、十代半ばに書いた小説のラストシーンもこんな感じだったかなと、僕はもう一度苦笑するしかなかった。
(1984年作)
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
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