拓海広志『海峡物語−N君のこと』

 N君が転校生として舞子の丘の上にある僕らの小学校にやってきたのは、教室の窓からいつも眺めていた明石の海の蒼や淡路の山の緑が鮮やかに映えるようになる5月の初めのことだった。


 神戸という土地柄のせいもあって、僕らには外国人の友達も何人かいたし、父親の仕事の都合で海外に引っ越していく者も結構いたのだが、そんな僕らにとってもN君は一風変わったエキゾチックなムードを漂わせた少年であった。


 先生に連れられて教室にあらわれたN君は真白いシャツの上にチェックのベストと半ズボンを着こなし、靴は茶系のスエード。それに洒落たベレー帽をかぶったいでたちは、まるで稲垣足穂の物語に出てくる少年のようだった。


 だが、そんなことよりも皆を驚かせたのは先生によるN君の紹介の内容で、それによるとN君はお父さんの仕事の関係でいつも世界中を旅してまわっており、今回舞子の町に滞在するのも僅か一月だけのことだと言うのだ。


 先生に挨拶を促されたN君は、端正で優しそうな顔に軽く笑みを浮かべながら「ここに来る前はドイツにいました。一月後にはアメリカへ行くことになっています。短い間ですがよろしく」と言った。


 当時僕が一番仲良くしていた友達は、スポーツが万能で、男の子以上に野性的で、性格もさっぱりしているJちゃんだったが、N君の席はそのJちゃんの隣になった。さりげなくJちゃんと握手を交わすN君は何だかとてもスマートだった。


 それにしてもいったいN君の家族は旅芸人かサーカス団にでも所属しているのだろうか。そうでなければ、そんな短期間の滞在を重ねつつ世界中を渡り歩くなんてちょっと考えられないな。僕は窓から海峡を行き交う船を眺めながら、いつものように白日の中で想像にふけっていた。


 その日の放課後、僕はJちゃんと一緒にカナヘビを捕まえに行く約束をしていた。Jちゃんの家と僕の家の庭には、僕らが近所の磯や山、原っぱで捕まえてきた虫や小動物を入れた小屋や水槽が所狭しとばかりに並べられていたのだが、その頃僕らはカナヘビを捕らえてきて越冬、孵化させる計画を練っていたのである(後日、これはちゃんと成功した)。


 ところが、そのJちゃんが放課後になるとN君も誘わないかと言い出したのである。僕はJちゃんの提案に対してほんのささやかなジェラシーを覚えたような気もするが、それよりもN君への興味の方が勝り、提案に同意した。そして、N君の方もどうせ両親は夜になるまで帰って来ないからと言って、僕らの誘いに乗ったのである。


 その日の遊びは絵に描いたようなシティボーイのN君にはかなり新鮮なものだったようで、僕が捕まえたカナヘビを恐る恐る手に取ってみても、いきなり尻尾を切り離してそいつが逃げ出したことにびっくりし、さらには掌の中に残された尻尾がピクピク動き続けているのに仰天して悲鳴をあげる始末だった。


 でも、これを機に僕らはすっかり打ち解けるようになり、それからはほとんど毎日のように一緒に遊んだ。ただ、N君の家族が何をやっているのかという最大の謎については、僕は何も尋ねることが出来なかった。それは彼自身の方から言い出さぬ限り、こちらから尋ねてはいけないことのような気がしていたのである。なんとなく・・・。


 当時、僕の父親は外航船の船員だったし、母親も残業や夜勤の多い看護婦の仕事をしていたので、家族がいつも一緒にいるものだという認識は僕にはまったくなかった。それ故にお父さんの仕事について世界中を転々とするというN君の暮らしがその頃の僕にはよく理解できなかったのかも知れない。


 それにしても一月というのは短い。N君が舞子を去る時が近づいていたある日の放課後、僕は彼を誘って二人だけで浜へ行くことにした。浜に出ると初夏の風が心地よかった。その頃から僕は大人になったら必ず船乗りになろうと決めていたのだが、その動機はいたって単純で、海さえ眺めていればいつも幸福な気持ちになれるということに気付いたからである。


 僕らは仲間内で「秘密の洞穴」と読んでいたトンネルの入り口に腰をおろし、海を眺めながら話を始めた。このトンネルは15メートルほどで行き止まりになっており、奥には一人の男が住んでいたのだが、僕らは彼のことをスナフキンと呼んでいた。スナフキンはたぶん釣りにでも行っているのか、その日は見当たらなかった。


 と、N君がポツリと言った。「僕はこの町で君と会えてよかったよ。どこへ行っても少しの間しかいないから友達なんて出来なかったけれど、君とJちゃんは僕にとって初めての友達だと思う」。

 
 その時、僕はずっと封印し続けていた疑問をつい口にしてしまった。「何で君と君の家族はそんなふうに世界中をまわってるの?」。

 
 N君は少し寂しそうな笑みを浮かべたが、それでもすぐにきりっとした表情に戻って「お父さんの仕事だからね。仕方がないのさ」と言った。「でも今までは転校が寂しいと思ったことはあまりなかったのに、今回はチョッと寂しいな・・・」。


 僕はそんな時に返せるような気のきいた言葉を持ち合わせてはいなかったので、そのまま石の床の上に大の字になって寝転がり、N君にも同じことをするように勧めた。こうしてじっと目をつぶっていると、トンネルに反響する波の音が身体の奥深くまで沁み込んできてとても心地よいのだ。


 僕らは無言のまま、ただ波の音だけを聞いていた。そうすると、何だかN君と僕の心が一つに溶け合っていくような気がして、ついさっきまで抱いていた疑問はもうどうでもよくなっていた。そして、僕らはいつしか眠ってしまったようだ。


「おい、早く帰らないと日が暮れるぞ!」

 
 男の声に目を覚ますと、釣竿を持ったスナフキンが僕らのそばに立っていた。寝ぼけ眼の僕らに向かってスナフキンは釣ってきたカレイを見せ、「今夜の俺の晩飯だよ」と言って笑った。潮と垢の沁み込んだ男の体臭から身をかわして海を見ると、夕陽の赤が波を鮮やかに染め抜いていた。


 それから数日後、N君は僕らの学校を去って行った。僕らの前に初めて姿をあらわしたときと同じように、涼しそうな笑顔を浮かべながら。


 その後、N君からの音沙汰は何もない。そして、歳月が流れ行く中で、スナフキンの住処もいつしか埋立地の人口海岸に変わってしまい、舞子の浜に出てももう当時の香りを嗅ぐことはできなくなった。


(1986年作)


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