拓海広志「ホクレア応援団の思い出」


 1998年の5月に発行された『アルバトロス・クラブ会誌 Vol.18』に寄稿した文章です。とても懐かしい会合のことが書かれているので、ここに転載させていただきます。ちなみに、「ホクレア」の日本への航海は2000年ではなく、2007年に実施されました。


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 3月から4月にかけて仕事でかなり忙しい日々が続いていたのだが、そんな折に屋久島に住む作家の星川淳さんから手紙をいただいた。手紙にはハワイのダブルカヌー「ホクレア」を日本に招くための支援組織(仮称:ホクレア応援団)を結成したいのでその発起人に加わってほしいということと、同船の船長であるナイノア・トンプソンさんが4月末に来日するので、それに合わせて行う発起人集会に出席してほしいという趣旨のことが書かれてあった。


 星川さんはもともと精神世界やディープエコロジー関係の著作や翻訳の多かった方なのだが、このところモンゴロイドの移動・拡散というテーマの著作も書かれており、僕の関心領域と重なる部分がかなり増えてきている。特にナイノアとポリネシア航海協会の活動について書かれた『星の航海師』という本は、僕らがかつてミクロネシアのヤップ島で行った「ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ〜パラオ間の石貨交易航海再現プロジェクト(アルバトロス・プロジェクト)」とも響き合う内容で、僕は大いに関心をそそられた。


 1970年代にハワイで伝統的なダブルカヌーを建造しようという動きが起こった経緯や、建造された「ホクレア」が成し遂げてきた航海については『星の航海師』に詳述があるし、ナイノアは龍村仁さんが作られた映画『ガイア3』に登場したことによって日本でも既に有名人なので、ここではそれらの紹介は省きたい。だが、あえて強調しておくことがあるとすれば、ポリネシア航海協会が行ってきた幾つかの航海は単に考古学や人類学的関心に基づく古代航海の実証ということにとどまっておらず、それはハワイ人による伝統文化の復興運動を引き起こし、さらにはその運動が他の太平洋の島々にまで拡がるとともに、次の段階ではエコロジカルな社会運動にまで高まりを見せているということだろう。


 1974年に「ホクレア」がハワイからタヒチに向けて初めての遠洋航海を行った際、一切の航海計器を使わずに星の位置や海上のうねり、また生物現象などを読み取りながら自らの位置と進むべき海の道を見出すという、身体的な知に拠る伝統的航海術を有する人はハワイはもとより、他のポリネシアの島々でも見当たらなかった。それで、ミクロネシアカロリン諸島に位置するサタワル島の航海者マウ・ピアイルッグさんがチーフ・ナヴィゲーターとして招かれ、彼の指揮によって「ホクレア」は処女航海に成功したのである。


 この航海にクルーとして参加していたナイノアはやがてマウに個人的に弟子入りし、伝統的航海術を会得することに成功した。そして、今ではハワイで青少年たちに伝統的航海術の指導を行うようにもなっている。太平洋の島々に住む人々が太古より培ってきた知恵と技術が急速に失われ、正に風前の灯火となっていた20世紀の末に、マウとナイノアという二つの偉大な魂が出会ったことによってそれが再生したことには大きな意義があるし、ナイノアをサポートしてきたポリネシア航海協会やその周囲の多くの人々の努力にも敬意を表したい。


 実は僕たちがヤップ島でシングル・アウトリガー・カヌー「ムソウマル」を建造し、「アルバトロス・プロジェクト」を実現した際にも、ヤップ本島には伝統的航海術を有する人はいなかった。そこで、やはりマウに船長をお願いしてヤップ〜パラオ間の往復航海を成し遂げたのだが、僕はそのプロジェクトを推進しながらもポリネシア航海協会の活動には強い関心を寄せていた。今回、星川さんを介してナイノアと出会い、「ホクレア」の日本へ向けての航海を多少なりとも応援することができるのは全く幸運なことだ。


 ホクレア応援団(仮称)の発足集会に出席したのは、ナイノアと星川さんの他に、竹内美樹夫さん(映画『ガイア』のプロデューサー)、内田正洋さん(海洋ライター)、添畑薫さん(写真家)、名畑哲郎さん(ヤマハ発動機)、豊崎謙さん(ヨットジャーナリスト)、佐藤淳一さん(海上保安庁)、ヒロシ・カトーさん(海洋生物学者)と僕だった。ここから応援される側のナイノアを除き、龍村さんを加えたメンバーが応援団の発起人になるそうだ。


 初めて会ったナイノアは穏やかだが意志の強そうな目をした人で、東京の人と車の多さには疲れたと言いながらも、自分の抱いているプランとアイデアについて一生懸命語ってくれた。それによると、「ホクレア」は来年の6月から半年かけてハワイ〜イースター島間の往復航海を行う予定なのだが、その翌年の2000年には進水25周年記念航海として3月にハワイを経ち、マウの故郷であるサタワルと現在マウが住んでいるサイパンに立ち寄った後、日本を目指したいとのことだった。


 ナイノアが子どもだった頃のハワイでは、学校でハワイ語を話すと友達に馬鹿にされたり、教師に叱られたりしたこともあったという。それが現在ではハワイ大学などでも正式にハワイ語が教えられるようになっており、フラに代表されるハワイの伝統芸能なども単なる観光目的としてではなく、もっと地に足のついた形で復興してきているが、こうしたことはこの25年の間に可能になったことである。これは「ホクレア」の航海やそれを利用した伝統教育の成果なのだが、それが可能になったのも元はと言えばマウがサタワル秘伝の航海術をハワイ人の自分に対して惜しげもなく伝えてくれたからだとナイノアは認識している。だから、2000年の航海はマウへの恩返しになるものにしたいと彼は語った。


 ナイノアは、日本での寄港地については魂の交流が可能になる地を選びたいと言う。サイパンから沖縄に向かい、その後少なくとも屋久島と佐世保には寄港したいので、最終目的地となる東京までの間に寄港すべきところを推薦してほしいとのことだった。僕は「森と海の思想」を孕みながら太平洋や東南アジアの島々ともリンクしうる地である熊野への寄港を彼に勧めた。熊野であれば精神的に実りの多い交流行事を行うこともできるし、そのコーディネートにおいて僕自身がかなりサポートできるからだ。


 僕らはその他にも様々なことを話し合ったが、会合の最後にナイノアは「日本に行くことに一体どのような意味があるのか、またポリネシア航海協会の持つ価値観を日本の人たちと共有することができるのかと、来日前はとても不安な気持ちだったが、今日の話し合いを通じてそうした不安は完全に払拭された。再来年には是非「ホクレア」で日本を目指したい」と語った。


 2000年の航海に向けてやらねばならぬことはたくさんあるし、多くの方々の協力と支援を得なければならぬだろう。また、僕はこのことをヤップ島にも伝え、「ムソウマル」を島の青少年への伝統文化教育に使おうとしている人たちの心に働きかけたいとも思う。星川さん流に言うならば、「ホクレア」の航海を通してハワイとサタワル、ヤップ、サイパン、沖縄、屋久島、熊野などを結ぶインナーネットが既に生まれつつある予感を僕は抱いているのだ。ただし、それを形あるものにするためには様々な働きかけが不可欠だろう。


 昨年末に十津川村で行われたアルバトロス・クラブの第7回年末シンポジウム「熊野―21世紀のオルタナティブ」において、ニュース和歌山編集長の重栖隆さんは20世紀を「人類の活動量が自然環境のキャパシティーを超えた世紀」と位置付け、21世紀においてはそのバランスを回復させねばならないと語った。そんな20世紀最後の年に「ホクレア」が太平洋を渡って日本を訪れるというのは意義深いことだ。僕らにはナイノアらハワイの人たちとの交流を通して学ぶべきことは多々あるだろうし、そこには来たるべき21世紀の指針となるものも少なくないような気がするのだが、どうだろうか・・・。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


星の航海師―ナイノア・トンプソンの肖像

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ホクレア号が行く―地球の希望のメッセージ

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星の航海術をもとめて―ホクレア号の33日

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祝星「ホクレア」号がやって来た。 (エイ文庫)

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