拓海広志「キラキラの国の再生力(1)」

 この文章は1993年にジャカルタで書かれたものです。


   *   *   *   *   *   *


 夕暮れ時に家の近所を散歩する。縁台に腰掛けて夕涼みをしている人々と、その足下でうずくまる鶏たち。そして家々の間に所狭しとばかりに干された洗濯物の間を縫うようにして薄暗い路地道を行くと、モスク裏の墓場に出る。モスクからは一日に五度コーランの朗唱が拡声器を通じて流れてくるのだが、ジャカルタに引っ越したばかりの頃は何となく押し付けがましく感じられたその祈りの声も、今ではすっかり暮らしのBGMになってしまった。


 モスクのすぐそばにはバジャイ(軽三輪車)の修理屋があるのだが、そこは夕方から深夜にかけて若者たちが楽器を奏でたり、ラジオを聴いたりしながら四方山話をする社交場にもなっているようだ。このあたりは通りに面した家の三軒に一軒ほどの割合で、小さな雑貨屋や駄菓子屋、食堂が並んでいる。裸電球の灯りの下で寛ぎながらワルン(屋台の露店)の店先で静かに談笑している人々の様子はまるで幻灯を見ているようで、それ自体がワヤン(影絵芝居)であるかのように思えてくる。


 通りには朝早くから夜遅くまでひっきりなしに物売りが歩いている。物売りたちは、その売り物ごとに異なる合図(鐘や鈴、呼び声など)をしながら道を行くので、少し慣れてくるとその音や声を聞いただけで何を売っているのかがわかるようになる。中でも面白く感じるのは駄菓子売りが「食えぇ〜!」と甲高い奇声をあげながら道を行くさまだが、実は何のことはない。クエとはインドネシア語でお菓子のことなのだ。


 クエ売りの他には、ミ(そば)、バソ(魚肉団子)、エス・チャンプル(かき氷)、パン、果物、ジュース、玩具、竿竹、日用雑貨、水、灯油など、実に様々なものが売られている(最近はついに「ヤクルトおばさん」も登場した)。そんな物売りたちを冷やかしながらぶらぶらと道を歩き、やがて家の前にある竹薮まで戻ってくると、小さなどぶ川をへだてた我が家の庭に放置しておいた雑草がすくすく伸びた結果のパパイヤの樹が月明かりにぼんやりと照らされて見えた。


 ジャカルタの路地を歩くたびに、僕は少し懐かしい気持ちになる。それは恐らく僕が幼かった頃の神戸の下町の風景と似たものを感じるからだと思うのだが、お祭り好きで物見高いジャカルタっ子たちが訳もなく群れ集っているのを見ると、辻々のお地蔵さんに向かって手を合わせるよりも先に用意された駄菓子をもらっては、また次の辻に向かって弟や従兄弟たちと共に路地を駆け巡った懐かしい地蔵盆の夜を思い出したりもする。


 やはり神戸で生まれ育った国際交流基金小川忠さんは、僕の高校の先輩だ。小川さんも著書『インドネシア』に、スンダ・クラパ旧港近くのルアル・バタンの路地を歩きながら、昭和30年代の神戸の下町を思い出して懐かしく感じたと書いているから、これは必ずしも僕だけが抱いている思いでもないようだ。もっとも、ルアル・バタンはいわゆる貧民街であり、1980年代には沿岸で獲れた魚を常食としていた人々の間から公害病が多発した地域として知られており、小川さんの感傷も生ぬるい風が運んでくる悪臭に遮られて消えてしまったようではあるのだが・・・。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)




ジャカルタで住んでいた家の前の通りにて】




ジャカルタで住んでいた家の裏のモスクにて】


Link to AMAZON『インドネシア』

Link to AMAZON『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭』
Link to AMAZON『テロと救済の原理主義』
テロと救済の原理主義 (新潮選書)

テロと救済の原理主義 (新潮選書)

Link to AMAZON『原理主義とは何か』
Link to AMAZON『インド 多様性大国の最新事情』