拓海広志「キラキラの国のシティライフ(3)」
この文章は『月刊オルタ』の1996年8月号に掲載された拙文に少し手を加えたものです。ただし、オリジナルの原稿を書いたのは1993年です。
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ジャカルタ暮らしもそろそろ1年半になってくると、体内の水分もインドネシアのそれと入れ替わり、皮膚の毛穴もすっかり開き切ってしまったように感じる。
当地の人々にありがちなキラキラ(曖昧)な言動や行動については素直に受け入れても、仕事や生活の様々な場面で要求される賄賂や裏金といった類の悪習に対してはハッキリと断る。しかし、こちらの要求の最低線だけは通させてもらう、といった身の処し方もいつの間にか身についた。
クロード・レヴィ=ストロース氏の『悲しき熱帯』の冒頭の一節「私は旅も探検も嫌いだ」に快哉したという若き日の青木保氏は、バンコクのワット・ボヴォニベーで約半年に及ぶ修行生活をしたことがあり、その体験を『タイの僧院にて』という著作にまとめている。
旅や探検といった非日常的なアプローチは異文化を知る際の有効な方法の一つだが、生活者として異文化の中に入っていくとまた少し違った景色が見えてくる筈だ。
もっとも、前者においても数で押し切る「探検隊」的なやり方をすると異文化の中に十分入り込めないように、後者の場合も自らの属する企業や団体などに重心を置きすぎると、ビジネスの場面以外では単なる余所者として疎外されてしまうことになるだろう。
僕も学生時代にバックパッカーとしてバスやべモ、渡船などを乗り継ぎながらこの国を一人旅したときとは違って、現在は一応外国企業の駐在員という立場でジャカルタ暮らしをしているわけだから、このあたりのバランスの取り方には気をつけねばならないと思っている。
もちろん、生活者として異文化の中で暮らしたからといって、そう簡単にその世界の住人になれるわけではない。
特にジャカルタのように激しい貧富の差によって一種の階級社会が出来上がっているところでは、給与水準が現地の一般的ビジネスマンと比して相対的に高くなる外国企業の駐在員は「小金持」というカテゴリーに位置づけられてしまうため、少々難しい。
僕の親しい知人の中に、ジャカルタのタンジュン・プリオク港近郊でコンテナ・デポを経営している台湾人がいる。
彼は企業経営において高い志を持っていて、社員のモラルを高めるために福利厚生や社員教育に多くの金とエネルギーを注いできた。
しかし、彼の熱い思いはあっさり裏切られ、彼が用意した厚生施設や会社の備品はしばしば現場の労働者たちの盗難の対象となり、さらに信頼していた幹部社員が実は面従腹背で会社のお金を横領していたことも発覚した。
その結果、かつての理想主義者も最近は「連中は会社から金や備品、ノウハウ、人脈など、何かを盗み取ることしか考えていないんだ」と、少々寂しい愚痴をこぼすようになっている。
池澤夏樹氏は小説『マシアス・ギリの失脚』の中で、主人公のギリ大統領に「二つの文化の間の距離というのは、個人の人生で学べる限界をはるかに超えて大きい」と語らせている。
僕は「文化」という言葉の本質は、人間が自らを取り巻く環界あるいは他者と結ぶ<関係>のありようだと理解しているのだが、それが特定の集団の中である程度共有化され、異集団との接触を契機とした自己対象化の作業などを経て、初めて「自らの固有の文化」という共同幻想ができあがるのだと思う。
すなわち「文化」とはある特定の集団における「自然と人間」そして「自己と他者」を結ぶ<関係>の糸の束なのであり、それは確かに個人が軽々と乗り越えていけるものではないのかも知れない。
異文化社会で生活する者は、彼我の間に横たわる容易には越えられないものの存在を認めた上で、その社会においてうまく共生していくことを学ばざるをえないようだ。
ところで、「ジャワ人と日本人の性格は似ている」といった類のことを述べる人に時折出会うが、この種の印象批評をあまり鵜呑みにしてはいけない。
そんな風に語るのは大抵は日本の知識人なのだが、彼らはジャワ人を語るふりをしながら、たぶんもっと別に語りたいことがあるのだろう。
<個別>の問題として理解されていたことが、よく見ると実は<関係>の一断面だったというのはよくあることだが、人の「性格」なるものも<個>の属性としてのみ理解されるのではなく、<関係>の所産としても理解されるべきだろう。
それがどのような<関係>が可能な世界であるのか、現実にどのような<関係>によって織り上げられてきた世界であるのかを語らぬ「性格論」は不毛だと思う。
大都市ジャカルタでの生活に息が詰まりそうになると、僕はリュックを背負ってジャワやバリの片田舎、あるいはスラウェシやマルク、スマトラ、カリマンタンなどの地方都市や村々を旅してまわる。
そこで出会うものは全て新鮮で輝いて見えるし、そこで知り合った人々との<関係>もごく自然に交じり合える気持ちのよいものが多い。それはきっと気楽な旅人だけが得ることのできる至福の時間なのだろう。
ところが、僕が旅先で出会った人々が地方からジャカルタに出てきて、知人が経営するコンテナ・デポの現場労働者として働いたり、知人の家で住み込みの女中として働いているとすれば、彼らと旅先で作り上げた愉快な<関係>をそのまま再現することはたぶん容易ではないだろう。
地方を訪ねた旅人としての僕の目に映っていた彼らの姿や性格と、ジャカルタの生活者たる僕の目に映る彼らの姿や性格に何らかの違いがあるとすれば、それは一体何に由来するのだろうか?
それを考えることによって彼我間の<関係>をもう少しきちんと見つめ、お互いに受けた傷の程度も確認しておきたい。「癒し」に要するであろう時間をはかるためにも・・・。
そんなことを考えながら、生活者と旅人の間を往還している、今日この頃の僕である。
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