拓海広志「キラキラの国のシティライフ(2)」

 この文章は『月刊オルタ』の1996年7月号に掲載された拙文に少し手を加えたものです。ただし、オリジナルの原稿を書いたのは1995年です。



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 友人と一緒にフィリピンへ遊びに行ってきたKさんから聞いたところでは、彼女の友人はマニラで出会った謎の男に魔術をかけられてしまったそうで、ジャカルタに戻ってきてからバンテン地方の高名なドゥクンに診てもらってようやく回復したという。
 またN君の弟はバンテン地方の山中に住むドゥクンに頼んで自分のペニスを倍近い大きさにしてもらったそうだ。ドゥクンは彼のペニスにジャムゥ(伝統薬)を塗って呪文を唱えただけだと言うが、そんなことでペニスが大きくなるとすれば凄い話だ(「だからどうした?!」とも言えるが(笑))。


 西ジャワのバンテン地方は南海の女神として知られるニャイ・ロロ・キドゥル信仰をはじめアニミズム信仰が非常に強く、呪力を持つという人も多いところで、外国のテレビ番組などに出てきて身体中に釘を刺して平気な顔をしているインドネシア人がいれば大体この地方の人だ。
 もっとも、超能力が取りざたされるのはバンテン地方だけではなく、インドネシア中どこへ行ってもこの手の話は枚挙に暇がない。そして、今や大都会となった首都ジャカルタの真っ只中でさえも、人々の多くはそうした神秘主義に依拠しつつ日々の暮らしを送っている。


 僕の友人S君は人一倍霊感の強い男で、これまでにもしばしば幽霊を見たことがあるそうだ。彼が僕の家にやって来たときに、家の前の竹薮に赤ん坊の霊が潜んでいると言い出した。
 S君によるとその竹薮は以前ゴミ捨て場であった可能性があり、その霊はかつて何らかの理由でそこに捨てられて死んだ赤ん坊のものではないかとのことだ。
 S君はその霊は家に危害を加える意図は持っていないので、気にすることはないと言うのだが、僕がいくら竹薮に見入っても何も見ることはできなかった。


 ところで、僕は1年前にミクロネシアのヤップ島で造った帆走カヌーでパラオ諸島まで航海し、そこにある結晶石灰岩を切り出して大きな石貨を作り、それをカヌーに積み込んで再びヤップまで戻ってくるというプロジェクトをやったのだが、それ以来「石」に対する興味が強くなっている。
 そこで華人の友人L君の勧めもあって、彼らにとって最も重要な意味を持つ翡翠のネックレスを身につけてみることにしたのだが、この時にL君がまず占いをした方がよいと言い出した。何事につけ、占いの結果を尊重するのはインドネシア人にも中国人にも共通する性格だ。
 L君によると翡翠には魂が宿っているので、自分にふさわしいものを選ぶ必要があり、正しく選べばそれは持ち主に幸運をもたらすが、逆に間違ったものを選ぶと石は砕け散り、持ち主に災いが起こるという。だから、初めて翡翠を身につける際には、まずちゃんとした占い師に見てもらうべきだというのが彼の意見だった。


 L君が連れて行ってくれたのは、コタの華人街でも有名な老占い師のところだった。彼女は優れた占い師を輩出してきたとされるスマトラ南東沖のバンカ島出身なのだが、まだ若かった頃に精神を浄化するために森にこもって瞑想を行い、その後師匠について占いの術を会得したのだという。
 彼女の占いはバンカ島に古くから伝わるというカード占いだった。占いに用いるカードは人々が博打をする時に使う何の変哲もないものだが、彼女は新しいカードを入手する度にそれに強い霊力を宿すために40日にも及ぶ断食行を行うのだそうである。
 かくて、その占い師が僕のために選んでくれた石のデザインは「龍」であった。彼女は「龍はとても強い霊力を持っているので、それを彫りこんだ翡翠に位負けせぬよう、志を高く持って日々自分を磨きなさい」と言った。


 呪術にせよ幽霊にせよ、当事者とその周囲にいる全ての人たちが心の底から信じている限りにおいて、それらは一種の共同幻想として何らかの力を発揮しうるので、あまり馬鹿にしてはいけない。
 現に僕の友人O君もある人から恨みを買ったために、黒魔術で呪い殺されそうになった経験を持っている。彼の場合は、ドゥクンの呪力で掛けられていた黒魔術を解いてもらい、九死に一生を得たという。
 また、ジャワ島やバリ島をうろうろすると、あちらこちらで「ケトック・マジック」と書かれた看板を目にするのだが、これは主に東ジャワのブリタール出身者が経営する車の修理屋である。ただ、それが普通の修理屋と異なるのは、ここでは一切の工具は使われず、呪術の力だけで故障した箇所が直されるということだ。
「まさか」とは思うだろうが、これも意外に多くの人がその効力を信じており、だからこそこれほど多くの店が開業しているのだろう。


 こうした神秘的な諸々の出来事も、つまるところはインドネシアの人々が自然と対話し、また自然を読み解くために用いる<方法>だと解釈するならば、友人たちから聞かされる荒唐無稽で不思議な話も時には奥行きのある知恵を孕んだものとして聞こえてくることがある。
 また、僕の周囲にもドゥクンとして人々から畏敬されている人は何人かいるのだが、彼らは様々な悩みを抱えて日々の暮らしを送っている庶民のカウンセラーのような存在であり、それを簡単に神秘主義として退けてしまうのは少々早計な気がする。


 かくて、友人たちの語るそんな楽しい話に耳を傾けながら、路地裏のワルン(屋台店)で生ぬるいビールを氷入りのグラスに注いで飲んでいるのが、今日この頃の僕なのだ。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


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