拓海広志「羽黒フォーラムにて(2)」

 1996年と1997年の2回にわたり、僕は「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム」(国際文化会館国際交流基金の共催)に出席させていただきました。このフォーラムのルーツは、インドネシアの故スジャトモコ氏(前国連大学長)、タイのスラック・シワラック氏(思想家)らが中心となって組織したパシフィック・アスラマ(Pacific Asrama)へとさかのぼり、文化的背景を異にするアジア各地の若者が一同に会し、寝食を共にしながら、言語・宗教・価値観などの差異を超えて共通の課題について話し合い、思索することを通して、アジアの人間相互の理解と連帯感を深め、交流の輪を拡げることを目的としています。


 1996年のフォーラムは山形県羽黒町で、また1997年のフォーラムは沖縄県名護市にて開催されたのですが、いずれも20カ国近くより計25〜30名程度の若者が集められ、連日朝早くから夜遅くまで非常に刺激的な討議が繰り返し行われました。僕は国際交流基金小川忠さんらの推薦でフォーラムに招待いただいたのですが、招待された人の大半は大学・研究機関の研究者、ジャーナリスト、NGOのリーダーなどで、誰もが様々な経験と見識を持っていたため、僕にとっても得るものは多かったです。今回は1996年の「第6回アジア・パシフック・ユース・フォーラム」の概要及びその直前に出羽三山を駆け足で巡った旅について紹介させていただきます(当時書いた文章です)。


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 今回のフォーラムはタイ・チュラロンコン大学準教授のスリチャイ・ワンゲーオさんと独協大学教授の竹田いさみさん、そして国際文化会館企画部長の田南立也さんをコーディネーターとして進められた。他人を穏やかに包み込むスリチャイさんの優しいパーソナリティと、ご自分の専門ジャンルに捉われることなく座をまとめていく竹田さんの柔軟さ、また他人の話のポイントを的確につかみながら指針を示していく田南さんの指導力は、いずれも今回のように様々なバック・グランドを持つ人々が集まったフォーラムでは欠かせぬものだったと思う。


※8月8日

 前夜は羽黒町主催の歓迎レセプションが行われただけだったので、実質的な討議はこの日からだ。9時から17時までは羽黒町のいでは文化記念館で、また19時から21時までは参加者が宿舎としている東京第一ホテル鶴岡の会議室で、全員が自分の用意したペーパーに基づくプレゼンテーションを行い、それに対する質疑応答がなされた。まだ初日だけに何となく空気が張り詰めている。

 どのプレゼンテーションも興味深いものばかりだったが、傾向としては「開発の持つ多面性とその持続可能性」「ジェンダーの変容と人権」「普遍的人権とアジア的人権」「文化の多様性と普遍性」「伝統の意義」「オルタナティブな価値の発見」「歴史教育のあり方」といった問題意識を持つ人が多いように感じられた。


※8月9日

 この日は朝から地元の羽黒高校を訪問した後、再びいでは文化記念館に移り、前日のプレゼンテーションの続きだ。僕のプレゼンもこの日に行われたが、研究者やジャーナリスト、NGO活動家が大半を占める参加者の中で唯一人のビジネスマンである僕が『Why do people sail across the sea ?』というテーマで話したものだから、皆に意外な感じを与えたようだ(僕にもNGO運営者という肩書きはあるのだが、今回のフォーラムではあえてそれを名乗らなかった)。

 ただ、「アジア・パシフィック」のフォーラムとは言いながら、今回の参加者はアジア、アメリカ、オーストラリアの17カ国から来ており、太平洋島嶼域から来た人は皆無だったし、その地域のことについて言及した人はいなかったので、このフォーラムに多少広がりを与える役を果たせたのではないかと思う。

 経済開発路線をひた走るアジア諸国が描く「開発モデル」を太平洋島嶼域にそのままあてはめることは不可能だが、この地域にふさわしいモデルを見出す努力をするとともに、今こそ太平洋の島からアジアを相対化する試みも必要なのではないか? ふと、そんなことも考えてみた。

 昼食後の13時から18時までは二つのグループに分かれ、いでは文化記念館から外に出て突っ込んだ討議を行うことになった。僕たちのグループはタイ・ネーション紙記者のプラヴィット・ロジャナブルクさんをコーディネーターとし、出羽三山神社の参道沿いにある滝の前で議論を行った。

 もう一つのグループはインドネシア経済誌記者であるラクマン・ファジャロエルさんをコーディネーターとし、やはり羽黒山五重塔そばの木陰で議論を行ったようだ。このグループ・セッションあたりから座の雰囲気は急速に和んできたが、まだ全体に公式通りの発言が多く見られ、また議論は抽象論に終始していた。

 ホテルに戻った僕たちは20時からグループ・セッションを再開したが、プラヴィットさんの情熱に惹かれるまま23時過ぎまで議論は続けられた。僕たちのグループにはインドネシアの人権問題などで活躍するNGO活動家の津留歴子さんもいたが、実践派の彼女も皆の議論があまりにも抽象論に傾きすぎていることを懸念していた。

 一連の討議中は徐々に「普遍的人権とは何か?」ということに収斂されてきた。僕は阪神大震災後に神戸市がとった市民の仮設住宅への移住策の中で、市がいかに地域コミュニティーのあり方に対して無頓着であったかという事例を紹介し、居心地のよいコミュニティー内で暮らすということも人権の一つではないのかと主張してみた。

 かくて公のセッションはいったん終了したが、その後もビールを飲みながら皆の議論は深夜に及んだ。アジアにはまだ「原論の自由」の存在しない国が多くある。母国を離れたところで同世代の仲間たちと思う存分議論できることを素直に喜ぶ彼らの情熱とパワーには圧倒されるが、徐々に皆の本音が飛び交うようになり、議論が面白くなってきた。


※8月10日

 この日は9時から15時半まで、いでは文化記念館にて再び全体討議が行われた。前夜遅くまで語り合った僕たちのグループは眠い目をこすりながらの参加だったが、会議はかなり盛り上がりを見せ、かなり核心に迫った議論がなされるようになってきた。

 この日の議論で大きなテーマとなったのは「普遍的人権とアジア的人権」ということだった。津留さんは「基本的人権は普遍的なものであり、それは他人から傷つけられない権利のことだ」と主張したが、ラクマンさんは「誰がそれを決め、誰がそれを保障するのか?」という問いを投げかけた。

 僕はまず「歴史的あるいは文化的な文脈の中で、それぞれの集団に固有の人権意識があることを認めねばならないが、その多くは実は自然と人間の関係性の反映であり、当然のことながら相対的なものだ」という持論を展開した。

 僕が具体的な事例としてあげたのは、中部ジャワのオラン・ブサール(富める者)とオラン・クチール(小さき民)の関係性であり、またミクロネシアカロリン諸島におけるヤップ本島民と離島民の関係性である。

 いずれも、厳しい自然の中で生存のために弱者が強者に依存せざるをえなかった歴史を持ち、そこでは弱者は人権と言うよりもむしろ生存権を得るために強者に服従していた。しかし、かつて自然の持つ強大で神がかった力は、中部ジャワではマタラム・イスラムの王に、またカロリン諸島ではヤップ島の大酋長に仮託されていたという重大な事実を見落としてはならない。

 インドネシアの場合、スカルノ前大統領もスハルト現大統領も、共にこの中部ジャワ的支配原理を自らの政治手法に取り込んでおり、人民の生存権は自然の意思によって左右され、その自然の意思は最大のオラン・ブサールたる自らによって体現されるという意識を持っていたようだ。そして、人民にも自らのことを人民の庇護者として認めさせるべく工夫をこらしてきたのである。

 だが、このような権利の意識はもともと強大な自然の力に翻弄されてきた人間たちが作り上げた生存のための社会システムに依拠するもので、当然のことながら普遍性はない。スハルト大統領が「アダット(慣習法)の中の権利を重視する」と語るとき、僕は政治支配のために伝統という方法がご都合主義的に利用されていることを感じる。

 自然と人間の関係のあり方や社会のあり方が変化するにつれて人々の権利意識も変わっていくし、これからの世界においてはこうした歴史的・文化的な文脈において培われてきた<人権=生存権>意識とは別に、より普遍性のある基本的人権を世界中の全ての人が生まれながら持つものとして規定し、認識せねばならぬだろう。

 つまり、僕は「アジア的人権」という言葉で一括りにはできぬまでも、個別の文脈において形成されてきた人々の権利意識をそれなりに尊重する立場は取るが、それを超えるものとして「普遍的人権」という共通概念を確立すべきだと考えるのだ。

 僕の意見は必ずしもラクマンさんが投げかけた疑問に対する回答とはならないと思うが、フィリピンの助成財団でディレクターを務めるルス・ヘロッチさんは僕の意見を認めた上で、「現在、欧米諸国が主張する基本的人権はやはり西欧的な思考に基づいている。基本的人権は自他やジェンダーに差異がないという前提に立つのではなく、差異を認め合うところから出発せねばならない」と語った。

 かくのごとく、議論は急速に白熱してきたのだが、津留さんの情熱が皆をリードし、ここにきて問題が非常に大きくなってきているインドネシア政府による野党・民主党の党首人事への介入、メガワティ前党首支持派への弾圧などについての議論も活発に行われた。

 津留さんは「議論がここまで深化したのだから、今回のフォーラムの討議の要点をまとめ、公にするための声明文を作るべきではないか」と主張し、ラクマンさん、ルスさんの他、香港の助成財団のアンナ・リザ・マグノさん、筑波大学のスス・タトゥンさん(ミャンマー人)、上智大学の石井正子さん、山形新聞の三浦保志さん、そして僕が協力して今夜中に「声明文」のドラフトを作ることとなった。

 他方プラヴィットさんからは「今回このような素晴らしい議論ができたメンバー相互の交流を維持し、さらに発展させていくために何らかのネットワークを立ち上げてはどうか?」との提案があり、これについてはシカゴ大学のジェレミー・ハンターさん、コロンビア大学のシェーン・アリアンさん、オックスフォード大学のアンドリアス・リースランドさん、台湾緑の党の張淑攻さんらが協力して、今夜中にアイデアをまとめることになった。

 この日の夕方、一行は山口吉彦さんが館長を務めるアマゾン民族館を訪れた。山口さんはアマゾンに魅せられた博物学者だが、ここには氏が何度もアマゾンに通って収集した様々な民具が展示されている。僕が先日訪問したアマゾン自然館と合わせると立派なアマゾン博物館となるが、一人でこれだけのことをやり遂げられたエネルギーには敬服する。

 その夜、鶴岡市内は花笠踊りのパレードで盛り上がっていた。僕たちはフォーラム開始以来初めて夜の街に繰り出してパレードに飛び入り参加し、慣れぬ踊りを楽しんだのだが、21時半頃にはもうホテルに戻り、津留さんを中心とする「声明文」のドラフト作りと、プラヴィットさんを中心とする「ネットワーク」作りのための企画会議が行われた。

 僕は自分のプレゼンで主張したように、「伝統」を集団の文化的アイデンティティを保つための「方法」として理解することにより、「伝統的社会」と「近代的社会」を単純に対立させる考え方をやめさせ、伝統主義を通俗的な懐古趣味やロマン主義に堕落させたり、それが政治的な方便として権力者に利用されることを避けたいという思いがあったのだが、皆との議論を経て、声明文の趣旨が僕の意図するところと近づいていたので嬉しく感じた。

 また「普遍的人権とアジア的人権」の問題についても、先述した僕の論旨と声明文の内容はかなり近いものだった。僕は今回のフォーラムの中でこの二点にややこだわっていたので、他の参加者たちと意見が一致してきたように思えて、嬉しくなった。かくて、「声明文」のドラフト作りがほぼ終わりに近づいた時には、もう深夜の2時を回っていた。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【プラヴィット・ロジャナブルクさん(向かって右)と】


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