拓海広志「タガロアの故郷を訪ねて(4)」

 これは今から10数年前のある年の6月末に、インドネシアのマナド、サンギールを旅しながら書いた日記からの抜粋です。


* * * * * * * *


★6月27日(後編)

 陶磁器の話になったところで、ちょっと余談を許してほしい。昨年の8月9日は聖者マホメットの生誕日ということで祝日だったのだが、僕はジャカルタの友人たちと共に8日の夜から車でチレボンへ出掛け、郊外にあるジャティ山(グヌン・ジャティ)にこもっていた(チレボンの南には海抜3千メートルを越すチュルメイ火山が聳えているが、ジャティ山は僅か20メートルほどの高さしかなく、山というよりは小丘である)。チレボンはジャカルタから東へ200キロほど行ったところにある港町だが、スンダ文化圏の東限にあたるだけにスンダ文化とジャワ文化が入り混じっており、さらに中国文化の影響も強いことから町の雰囲気は一種独特である。

 15世紀末から16世紀初めにかけてジャワにイスラム教を伝えたとされるスーフィズムイスラム神秘主義)の9聖人はワリ・ソンゴと呼ばれ、今でもジャワのイスラム教徒たちの崇拝を集めているが、その1人のスナン・グヌンジャティが16世紀半ばに樹立したイスラム王国がチレボン王国である。グヌンジャティは死後ジャティ山に葬られ、以後ジャティ山は聖山として人々の信仰の対象となっているわけだが、毎年マホメットの生誕日にはジャワ島各地からイスラム教徒がジャティ山に駆けつけ、廟で瞑想をしながら一夜を明かした後、山にある7つの聖なる井戸を巡って水浴することによって心身を清めるのだ。

 今回、僕もグヌンジャティ廟で多くのイスラム教徒と共に一夜瞑想し、翌朝は聖水を浴びながら7つの井戸を巡ったのだが、深夜・早朝に山の中を歩くと大木や岩に向かって一心不乱に祈っている人も多く、ジャワ特有のアニミズムも感じられた。また廟の中には華人イスラム教徒たちが祈りを捧げる場所も特別に設けられており、そこには仏像こそなかったが人々は線香を供えながらあたかも仏を拝むかのごとくたたずんでいた。

 今回、僕と一緒にジャティ山を訪ねた友人の中には僕が親しくしているドゥクン(呪術師)もいたのだが、彼も普段は霊媒師のようなことをやっているくせに、一方ではイスラム教徒を名乗っており、ワリ・ソンゴのこともちゃんと崇めているのだから面白い。チレボンという地名はジャワ語で「混合」を意味する「チャルバン」という語に由来するという説があるそうだが、ジャティ山をめぐる信仰のあり様を見ているとそれに同意したくなってきた。

 ところで、人々が瞑想をしながら一夜を明かすグヌンジャティ廟なのだが、その壁や柱のいたるところには陶磁器の皿やタイルが埋め込まれており、それが独特の雰囲気を醸し出している。同行の友人たちはそれらの陶磁器は全て中国製だと言い、事実そこには明らかに景徳鎮とわかるものも多かったのだが、中にはヨーロッパ製のものやベトナム製ではないかと思わせるものも混じっていた。

 だが、ここで最も人目を惹いたのは、墓の入り口にでんと置かれている大きな蓋付き壷であった。これはもしかしたら日本製ではないだろうかという気がし、家に戻ってから書斎で幾つかの文献をあたってみたところ、大橋康二さんと坂井隆さんの共著『アジアの海と伊万里』にそれが伊万里であることが書かれてあった。僕は以前この本を大変興味深く読んだことがあるのだが、そこにグヌンジャティ廟のことが書かれていたことはすっかり忘れていたのである。

 しかし、ここで注目すべきことは、伊万里焼の蓋付き壷をはじめ、廟を飾る陶磁器の多くがスナン・グヌンジャティが生きていた時代のものではなく、18世紀のものだということである。肥前磁器の技術が目覚しい革新を遂げたのは17世紀半ばだというが、清が1656年に海禁令を出して磁器輸出をストップさせたことにより、オランダ東インドネシア会社(VOC)は景徳鎮磁器に替わる磁器の注文先を肥前とした。伊万里焼が欧州諸国や彼らが植民支配していた東南アジア諸地域でその名を知られるようになったのは、それ以降のことだ。

 一方、スナン・グヌンジャティが建てたチレボン王国は17世紀になると、東のマタラム、西のバンテンという二つのイスラム強国、またVOCの三者間の紛争の余波に苦しみ、18世紀にはVOCの支配下に入るようになる。その頃にはチレボン王国の経済的実権は華人の手に移っていたとも言われるが、そうした複雑な背景の下で肥前の蓋付き壷は鎖国下の日本からはるばるチレボンまでやってきたのだ・・・。


 すっかり余談が長くなってしまったが、サンギール島内を少しうろうろしてタルナに戻ってきた僕たちは港へ向かい、再びマナド行きの船に乗ることにした。港の周辺には全長10数メートルはあるダブル・アウトリガー・カヌーが何艇か置いてあったが、エディ・マンチョロさんの話ではこれらのカヌーは全てフィリピンの密漁船であり、数年前に海軍に拿捕されて抑留されているのだという。

 フィリピン人の乗組員たちは、今でもマナドの刑務所に抑留されているのだという。漂海民のバジャゥ人の話を持ち出すまでもなく、東南アジアの海域世界は近代国家がむりやり作った国境ができる以前より頻繁に人の往来があったところで、そうした昔ながらの普通の生活を送っている海の民たちが犯罪者扱いされてしまうというのは少しなじめない。

 僕がそんなことを言うと、エディさんは「だからサンギールの人たちはマジックを使うのです」と妙なことを言い出した。彼によると、サンギールの漁民たちはフィリピン領海内で漁を行ったり、あるいはミンダナオ島まで密航せねばならないような時にはマジックを使って自分たちの船が波間に浮かぶ椰子の殻にしか見えないようにするのだそうだ。

 また、中にはつわものの老人もいて、海軍に捉えられた時にマジックを使って、只の紙切れをお札に見せかけ、それを袖の下に使って見逃してもらったり、捕まって刑務所に入れられてもマジックを使って簡単に脱獄してくるのだそうである。この紙切れをお札に変えるマジックについてはエディさんも目撃したことがあるそうだが、なんだか狐狸譚みたいになってきたなぁ(笑)。


★6月28日

 船がマナド港に入った。僕たちは港のそばにある中央市場まで散歩し、市場内の屋台で朝食をとることにした。相変わらずここの魚市場には活気があり、多様で新鮮な魚介類がずらりと並んでいるので退屈しない。エディさんによるとマナドの魚市場で働く人にはミナハサ半島南部の真ん中あたりにあるゴロンタロ出身者が多いそうだ。

 ところで、僕はアンボンを起点に何度かマルク諸島を旅しているのだが、その際に町の市場で丁子やナツメグなどの香料の類を見かけることはほとんどなかったし、また料理にそうした香料が使われているのを見ることもなく、やはり「香料諸島」とは外部のための名前であり、そこで収穫される香料は基本的に輸出用なのだと感じてきた。

 ところが、マナドの市場にはこれらの香料が豊富に揃っており、人々に聞いたところ家庭料理でも香料はよく使うという答えが返ってきた。確かにワルン(屋台店)などの料理にも香料を使ったメニューは多く、どのような経緯を経てマナドの料理がそんな風になったのか、興味を惹くことだ。

 それからサム・ラチュランギ大学のキャンパス近くにあるエディさんの家で水浴をさせていただいた後、僕はジョン・ラハシアさんに別れの挨拶をしに行った。氏は「また年内には来てくださいよ」と言って、僕の手を握り締めてくれた。

 今年、インドネシア共和国は独立50周年を迎えた。かつて独立の英雄スカルノを支えて戦ったラハシアさんが、1947年に行われた「コン・ティキ」の航海で一世を風靡していたトール・ハイエルダール氏の「ポリネシア人南米渡来説」に違和感をおぼえ、また西欧人がギリシア神話の海神オーケアノスにちなんで名づけた「オセアニア」という呼び名を嫌ってポリネシアの海神タガロア(「タンガロア」と表記するのが一般的だが、ラハシアさんは「タガロア」にこだわる)の復権を目指した、その原点にあったものは一体何なのだろうか?

 ラハシアさんの唱える「タガロロジー理論」を通俗的ナショナリズムの表現として片付ける人もいるし、氏の思想を往年の「大マレー主義」の一種だと指摘する人もいる。確かにそうした面が全くないわけではないし、きちんと批判すべき点もあるのだが、そうしたこととは別にサンギールの王族の末裔として生まれたラハシアさんの「海の民」の魂の叫びが僕には聞こえる。

 今回の僕の旅は、この叫び声の原点であるサンギールを一目見るためのものだったのだが、あまりにも駆け足の旅だったので、近いうちにそこを再訪してサンギール諸島をゆっくり巡ってみたいと思う。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


Link to AMAZON『アジアの海と伊万里』

アジアの海と伊万里

アジアの海と伊万里

Link to AMAZON『「伊万里」からアジアが見える』
Link to AMAZON『コンチキ号漂流記』
コンチキ号漂流記 (偕成社文庫 (3010))

コンチキ号漂流記 (偕成社文庫 (3010))

Link to AMAZON『海洋の人類誌』
海洋の人類誌―初期の航海・探検・植民

海洋の人類誌―初期の航海・探検・植民