拓海広志「船と航海の歴史(2)」

 数年前に「オフィス☆海遊学舎」が主催した会で、僕は「船と航海の歴史」と題したお話をさせていただきました。その内容をここで少し紹介させていただこうと思います。


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 室町時代になり、足利義満が明との間に外交関係を成立させると、日本からは勘合と呼ばれる明の渡航証明書を携えた遣明船が大陸へ渡るようになりました(1401年〜)。遣明船は五島の奈留浦(的山湾)や肥前大島の小豆浦あたりで風待ちをし、春と秋に吹く東北季節風を利用して一気に揚子江河口まで帆走することが多かったようですが、船には中国で発明された指南針を利用した羅針盤も設置され、その航海術も遣唐使の頃と比べると大きな進歩を遂げていました。こうした知識や技術は、当時朝鮮や中国沿海を荒らしていた倭寇と呼ばれる海賊らによってもたらされたとも言われています。


 その頃には日本も「海のシルクロード」の東端として世界の海上交易ルートの中にしっかりと組み込まれていくことになるのですが、明の永楽帝の命を受けたイスラム教徒の宦官・鄭和のジャンク船団が15世紀初頭の約30年の間に7度にわたってインド洋各地を遠征したことに刺激され、海上ルートを使っての東西交易はますます盛んになりました。そして、アジアの香辛料や陶磁器、絹、金などが中国、インド、アラブの商人と航海者の手を経てヨーロッパにもたらされていたのです。


 こうした東西を結ぶ交易のネットワークは強大な権力者の支配下で一元的に成り立っていたのではなく、いくつものローカルなネットワークが毛細血管のように結びつき、絡み合うようにして出来上がったものでしたので、そこでは人とモノと文化をめぐるさまざまな交流が行われていました。しかし、フビライ・ハーンに仕えて長く元に滞在していたマルコ・ポーロが故郷ヴェネチアに戻ってから『東方見聞録』を著し(13世紀末)、アジアの豊かな自然と産物についての話や、「黄金の国ジパング」に関する噂が西ヨーロッパで広まるにつれ、彼らの間ではそうした富をイスラム圏の仲介を受けずに直接手に入れたいという欲求も高まっていったようです。


 さて、西ヨーロッパが大航海時代に突入するにあたっては、それがルネッサンス期とも重なっており、西ヨーロッパ人が自分たちの文明に対して自信を得てきたこと、そしてその背景に科学や技術の大きな進歩があったことは見逃せません。特に14世紀頃には地中海でも精巧な羅針盤が使われるようになったことや、アラビアからもたらされた球面三角法の研究が進んだこと、また天文学と天測技術の進歩や、それらによって地図や海図の精度が高まったことは、航海術の進歩に大きく寄与しました。


 また、「海のシルクロード」を介しての東西交流や、北欧の人々との交流が進むにつれ、西ヨーロッパの造船法にも変化が生じました。ガレーなどに付けられていたラティーン・セール(三角帆)は地中海のように風向きが変化しやすい海域では扱いやすいのですが、外洋での順風航海にはヴァイキングが使っていた大型の横帆の方が適していました。そこで、それらを組み合わせることが考案され、3〜5本のマストの前部に横帆を、また後部にラティーン・セールを張るカラックという船が出現したのですが(カラックとはアラビア語で商船を意味します)、こうした装帆法は後のガレオンにも引き継がれ、それが大航海時代の遠洋航海を可能にしたのです。


 15世紀初頭のヨーロッパにおいて最も活発に海を駆け巡り、地中海世界と大西洋沿岸のヨーロッパ世界をつなぐ役割を果たしていたのはポルトガル人でした。彼らはマストにラティーン・セールと横帆を組み合わせて張ったカラヴェルという小型の帆船に乗って、未知の海に乗り出していくようになるのですが、こうした造船や航海の進歩を強く支援し、ポルトガルの海外進出を促したのはエンリケ航海王子でした。


 そして、数次にわたる西アフリカ探検航海の末、1488年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越え、東アフリカからインドのカリカットに至る航路を拓きました。これを機にポルトガルはインド洋進出を開始したのですが、特に彼らは香辛料貿易の独占を図り、その中継地となっていたインド西岸のゴアとマレー半島西岸のマラッカを占領しました。


 一方、スペインの女王イサベルの支援を受けたジェノヴァ人のクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)は、1492年に僅か100トンほどの小さなカラック「サンタマリア」と2隻のカラヴェルを率いて大西洋を西へ向かい、南北アメリカ大陸に到達するという快挙を成し遂げたのですが、当初彼はそこをインドの一部と思い込んでいたため、先史時代にアジアから渡ってきていた先住民のモンゴロイドたちはインディオと呼ばれるようになりました。


 ところが、その後スペイン人たちは大挙して新大陸に押し寄せ、先住民を奴隷として酷使したり、虐殺を繰り返したために、多くの地域で彼らの人口が激減するという事態を招きました。それでも、彼らは1519年にはテノチティトランを占領してアステカ王国を打ち倒し、さらに1533年にはクスコを陥落させてインカ帝国を滅ぼすなど、新大陸の植民を推し進めたのです。


 しかし、当時のスペイン人にとって目指すべき土地は香辛料をはじめとする豊かな産物を有し、また「黄金の国ジパング」があると信じられていたアジアでしたので、南北アメリカはその途上の地に過ぎませんでした。そんな折に東洋通を自認するポルトガル人のマゼランが、西廻りでモルッカ(香料諸島)を目指す計画を自国の国王エマヌエルに提唱して却下されたため、それをスペイン国王カルロス1世に持ち込んだのでした。


 この計画はカルロスによって承認され、1520年にマゼラン艦隊は南アメリカ大陸の東岸を南下してパタゴニアに至り、そこから約3ヶ月かけてグアム島に、さらに1ヶ月後にはフィリピンのセブ島にたどり着きました。マゼラン自身は不運にもここで命を落とすのですが、艦隊はさらに西へ進み、ついにモルッカのティドレ島に到達したのでした。


 このように大航海時代の前半はポルトガルとスペインが主導したのですが、1558年にエリザベス1世が即位すると、イギリスが本格的な海洋進出を開始します。そして、「ゴールデン・ハインド」という名のガレオンに乗った女王公認の海賊フランシス・ドレイクがスペイン領アメリカで略奪を繰り返した後、マゼラン海峡を通過し、サンフランシスコからモルッカのテルナテ島、喜望峰経由で本国へ戻るという世界周航を成功させると、それによって得た資金を元に1600年に東インド会社を設立したのです。


 また、1595年にはオランダのコルネリス・デ・ハウトマンが指揮する艦隊が喜望峰沖から偏西風に乗って一気にジャワ島に到達するという新しい航路を拓くのですが、この後オランダも東インド会社を設立してバタヴィアジャカルタ)に城砦を築き、東インド諸島(インドネシア)を植民地としました。


 このヨーロッパ人にとっての「大航海時代」は、現代のグローバリズムの出発点とも言えるものですが、それは日本にも大きな影響を与えました。1543年に種子島に入港した中国船に乗っていたポルトガル人が持っていた鉄砲は短期間で日本中に広がり、特にヨーロッパの科学や思想に対して強い関心を示していた織田信長は1575年の長篠の戦いで鉄砲を効果的に使い、当時無敵と言われていた武田勝頼の騎馬軍を打ち破ります。


 信長の後継者となった豊臣秀吉も海外との交易には積極的でしたので、1592年には民間貿易船の許可制度にあたる朱印船制度を開始しました。多くの日本人が東南アジアに進出し、マニラやウドン、アユタヤなどに日本人町ができたのはこの頃のことです。


 朱印船制度は江戸幕府にも受け継がれていくのですが、朱印船には中国のジャンクやシャム(タイ)の船が使われることが多く、その航海士には中国人やヨーロッパ人を雇うことも行われました。またイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)をアドバイザーとして寵遇していた徳川家康は、彼に命じて伊東で80トン及び120トンのヨーロッパ型の帆船を建造させましたし、伊達政宗もスペイン人のビスカイノに依頼し、遣欧使節をメキシコまで送るために石巻近くで帆船を建造させるなどしたため、この時期に日本人の造船・航海に関する知識は飛躍的に進歩したのです。


 こうした日本の急成長はスペイン人たちにも警戒心を与えたようですが、ヨーロッパ列強との接触による国内の混乱、特に島原の乱で現実化したキリシタンとの衝突、あるいは有力な西国大名が外国勢力と結びつくことを危惧した徳川家光は1636年に鎖国令を発しました。さらに幕府は建造してもよい船の大きさについても、それが外航に適したものとならぬよう制限を加えたのです。これによって日本の平穏は守られ、その間に各地で産業が振興し、自給自足型の社会システムが作られていったのですが、いったんは世界標準に近づきつつあった造船と航海に関する知識と技術についてはむしろ後退することになりました。


 とは言え、江戸時代には江戸と上方(大阪・京)という二大消費地を中心に、米や酒、塩、醤油、酢、砂糖、昆布、木綿、肥料、油などさまざまな商品の全国的な流通が活発に行われるようになりましたので、それらを運ぶための船が必要でした。その内航海運に使用されたのが1本の帆柱に四角い一枚帆を張った弁才船に代表される大和型荷船で、千石船というのはその俗称です。


 大和型荷船は強風時の帆走能力に難がある上に、揚げ板式の甲板部が水密構造になっていなかったため、荒天時には打ち込む波で船内が水浸しになりやすく、「板子一枚下は地獄」という言葉さえ生まれたのですが、江戸時代の海商たちはこの船を使って各地の物産を運び、最盛期には約260隻の船が年間で計1300回ほども航海していたと言われています。こうした海商の中には北海道や択捉との交易の開拓に力を注いだ兵庫の高田屋嘉兵衛もいます。


 しかし、日本が鎖国をしているうちに、アジアやオセアニア南北アメリカ、アフリカの多くの地域や国が西ヨーロッパ列強の植民地となっていました。そうした中で、イギリスが植民地のアメリカに売りつけた茶に高額の税をかけたことに対してアメリカの民衆が怒りを爆発させたボストン茶会事件(1773年)が引き金となってアメリカがイギリスから独立を遂げるなど、世界は激しく移り変わっていました。そして、その頃から世界は欧米が主導する近代へと突入していったのです。


 ところで、18世紀に太平洋の島々を探検し、その地理的な全貌を明らかにしていったジェームズ・クックの偉業に代表される、科学的調査を目的とした探検航海もまた近代を象徴するものだと言えるでしょう。1831年には若き博物学チャールズ・ダーウィンも測量を目的としたイギリスの軍艦ヴィーグルに便乗し、そのときの見聞を通じて自らの進化論を構築しています。


 しかし、当時の日本においても、『解体新書』を著した杉田玄白、択捉や国後などを探検した最上徳内樺太探検によって間宮海峡を発見した間宮林蔵、日本沿海の実測全図を完成させた伊能忠敬など、長崎の出島にやって来るオランダ人たちから伝えられるヨーロッパの学問を学びながらも、独自のやり方で近代との遭遇に備えた人々がいたことは知っておくべきでしょう。


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