拓海広志「船と航海の歴史(1)」

 数年前に「オフィス☆海遊学舎」が主催した会で、僕は「船と航海の歴史」と題したお話をさせていただきました。その内容をここで少し紹介させていただこうと思います。


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 皆さん、こんにちは。拓海広志です。今日は船と航海の歴史についてお話させていただこうと思います。


 人類の祖先が誕生したのは今から300万年くらい前の東アフリカの大地溝帯だったと言われていますが、人々はそんな昔から野や山を越え、河を下り、海を渡っては新しい土地へと移動し、たどり着いた新天地の環境に適応しながら地球上のあらゆる土地に拡散してきました。そしてそこで出会った別の人たちとの間で戦闘や交流を行い、さらに時代が大きく下ると交易をも行ってきたのです。


 先史時代の船と航海についてはわからないことが多いのですが、例えばアボリジニの祖先がアジアからオーストラリアに渡ったのは今から4万〜5万年くらい前だと言われています。当時、オーストラリア大陸ニューギニアと地続きでしたし(サフル陸棚)、インドシナ半島スマトラ、ジャワ、ボルネオ、スラウェシなどの島々もつながっていたのですが(スンダ陸棚)、それでもアジア側からオーストラリア側へ行くためには100キロ程度の海峡を渡らねばなりませんでした。つまり、人類はそんな昔にも何らかの手段を用いてこうした渡海を成し遂げているのです。


 人が河海を行く際にはもちろん船が使われたはずですが、人類が最初に作った船は単なる木の枝か動物の皮袋を膨らませたもの、次いで木の幹を組み合わせただけのごく簡単な筏や丸太をくりぬいた丸木舟のようなものだったと思われます。また、太古のナイル河で使われ、アフリカのチャド湖や南米のチチカカ湖などでは今でも用いられている葦舟も始原の船の一つだったのでしょう。エジプトやメソポタミアに誕生した古代文明の発展において河の航行が大きな役割を果たしたことはよく知られていますが、紀元前4000年代にはそれらの地域で舟の動力として帆を使い始めた形跡が残っています。


 ところで、我々日本人の祖先でもある太古のモンゴロイドがアウトリガー付きの帆走カヌーに乗って東南アジアの島々から太平洋へ向けて拡散を開始したのは紀元前3000年頃のことですが、彼らがソロモンからバヌアツを越えて、フィジーに達したのは紀元前1500年頃だと言われています。バヌアツからフィジーまでは800キロ程度の距離があるのですが、これは南東貿易風に逆らう航海となりますので、そこでカヌーは風上への切り上がり性能を高めるために、かなり大胆な改良が施されたことでしょう。そして、彼らは6世紀までにはハワイを含むポリネシアの主だった島々への拡散を終えたのです。


 東南アジアの多島海で使われているダブルアウトリガーカヌーは、船体の両舷からアウトリガーが伸び、その先に浮力となる竹などを取り付けたものです。しかし、島々が東西に点在し、年中北東からの貿易風が吹いているミクロネシアでは、片舷のみから突き出たアウトリガーの先に風上舷側の錘(おもり)となるパンの木などを取り付けたシングルアウトリガーカヌーが使われてきました。アウトリガーが常に風上側にくる形で航海が行われるため、ミクロネシアのカヌーは前後が同型になっています。また、島々の間の距離が大きいポリネシアにおいては積載能力に優れた双胴船のダブルカヌーも使われていたのですが、モンゴロイドがそれぞれの海の環境に合わせて使う船のデザインを変えていったのはとても興味深いことです。


 一方、優れた古代文明を生み出した地中海沿岸においても船は人や物資の輸送のため、あるいは戦争の道具として古くから活躍しており、紀元前4000年から同1000年頃にはエジプト人クレタ人たちが海に乗り出していました。また、彼らから地中海の制海権を引き継いだフェニキア人は、アラビア海にも進出して交易を行いました。やがて、ギリシア時代を経てローマ帝国の時代となり、1世紀頃にヒッパロスがインド洋の季節風を利用してアラビア半島からインド南岸のマラバル海岸まで直行する航路を開拓すると、ローマとインドの間でも活発な交易が行われるようになったのです。


 古代の地中海で生み出された船の中で特に有名なのはガレーですが、この船は17世紀の終わり頃まで軍艦としてヨーロッパで使われていました。船体は細長く、両舷に並んだ大勢の漕ぎ手の力で推進するのですが、帆走もできるようになっています。特に11世紀頃からはマストにラティーン・セール(三角帆)を取り付けるようになったため、逆風に対して切り上がっていくことが容易となりました。これはヨーロッパの帆船史上においては画期的なできごとなのですが、そのルーツを東南アジア島嶼域のカヌーやプラウの帆に求める説もあります。


 また、人類の航海史について語る上で忘れてはならないのは、8世紀から10世紀頃にかけてのノルマン人たちの活躍です。環境の厳しい北海の海を樫製の重くて頑丈な船に横帆を張って縦横無尽に行き来する彼らのことを、西ヨーロッパの人々はヴァイキングと呼んで恐れていましたが、北海を自分たちの庭としていた彼らは遭遇する海中生物の種類や海水や風の状態、測深索を使って測った水深、鳥の飛んで行く方向などを注意深く観察することによって自船の位置を見出す術を知っていたと言います。そして、ノルマン人たちは1000年頃にはアイスランドから海を渡り、北アメリカのニューファンドランドあたりにまで進出していた形跡もあるようです。


 一方、古代の日本においては、海人(アマ)族と呼ばれる人々が各地の海で釣り漁や網漁、潜水漁、タコ壺漁、また製塩などをして暮らしていたのですが、彼らはそうして得た魚介類や塩を朝廷に献上するだけではなく、天皇家を支える海上交通の担い手でもありました。応神天皇のころには北九州から瀬戸内海を中心に海路の往来が盛んになっており、記紀には274年に伊豆の国に命じて作らせた枯野(軽野)という船を使い、淡路島で湧く清水を天皇の御料水とするために海人たちに運ばせたという記述もあります。


 奈良時代から平安時代にかけての日本では、遣唐使(630年〜894年)を派遣するために、1隻に120人前後が乗り込める規模のジャンク船に似た構造の船が建造されました。遣唐使船は多くの海難事故に見舞われましたが、遣唐使たちが日本に持ち帰ったものは大きく、日本仏教の土台を作り上げた最澄空海の両巨人も唐で密教の奥義を学んだのでした。また、その頃既にアラブのイスラム商人は帆船ダウで東アフリカからアラビア半島、インド、東南アジアに至るインド洋世界を行き交い、広範な交易ネットワークを築き上げていました。


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【ダブルアウトリガーカヌー】


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