拓海広志「域内流通の可能性(2)」

 2000年12月に淡路島の由良で「域内流通の可能性」というテーマのシンポジウムが開催されました(主催:アルバトロス・クラブ)。そこで僕がお話した内容をここに紹介させていただこうと思います。


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 先ほど生産の現場であったむらの産物を売買するために市(マーケット)が生まれ、市を中心としてまちが出来ていったという話をしましたが、このまちが自己増殖して肥大化していくと都市になります。しかし、都市は「むら−まち」の相互扶助、相互補完的な関係を超えてしまい、周辺のむらを従属させるようになってきます。こうした都市の必要を満たすために生まれてきたものが広域流通だと言えます。


 域内流通が比較的顔の見える範囲内でモノや情報をやり取りしていたのに対して、広域流通は顔の見えない相手同志がモノや情報をやり取りしますので、商人にはマーケット分析に基づく戦略性、計画性が求められるようになりますが、このことがマーケティングの発達を促すことになりました。特に近代都市を舞台とする近代ビジネスにおいては、全てマーケティングなしでは成り立たぬようになっています。


 もっとも、都市は何も近代に特有のものではなくて、古代から存在しています。世界各地の都市の興亡史を調べるとわかってくるのですが、モノや情報を集積、消費し続けるのが都市の宿命ではあるものの、それを正しく処理できなくなった時に都市は滅びるということです。このことは現代日本の都市問題について考える際にも、きちんと念頭に置いておく必要があります。


 かつて市(マーケット)では一定の価値を有する貨幣によって、モノや情報の価値、相場が定められていましたが、やがて金融・為替マーケットが確立してくると、貨幣もまた一種のモノ、情報、記号として扱われるようになり、その価値自体が国際比較の中で激しく変動するようになりました。これによって、一次産品も二次産品も全て厳しくも刹那的とさえ言える国際的な比較、価格競争の渦の中に巻き込まれるようになったのですが、他方では急速に発達した国際的な輸送サービスと、石油の安定供給がこうした動きに加速をつける格好となり、広域流通はより世界的な規模へと発展していったわけです。しかしながら、どう見ても明らかにエネルギーの無駄遣いとしか思えない流通・物流もたくさんあるのが実情ですね。


 ところが、広域流通が国際規模になってくると、「都市−むら」間の関係が「先進国−途上国」間の関係においても顔を出すようになってきました。特に多国籍企業が途上国においてやってきたプランテーション型の開発が、途上国における富の偏在を生み出す原因となったり、自然環境や生活文化の破壊といった負の側面を持っていたことは既に多くの人から指摘されてきた通りだと思います。勿論、こうした関係性を「加害者−被害者」といった単純な二元論だけで語るのは非常に時代遅れだと思いますが、それでも私たちは自分たちの食べているもの、消費しているものが、どこでどんな風に生産され、流通してきたのかを知る努力を怠ってはいけないと思います。


 ところで、現在の流通の世界において重要性が喧伝されているのがサプライ・チェーン・マネージメント(SCM)ですが、SCMの考え方には非常に合理性がある反面、あらゆるモノの流通、特に一次産品の流通においてまでこの概念を単純に導入するのは危険ではないかと思います。SCMの最も重要な点は実需を出来るだけ正確に把握した上で、適量生産し、最適物流を構築していくということで、これは工業製品の生産や流通において資源の無駄遣いを避けるという面で大きな意義があるのですが、天候に左右されやすい一次産品の場合はなかなか簡単にはいきません。一次産品の特質を十分理解した上で、それに合ったSCMを構築、導入する必要があると思います。


 ここまでかなり駆け足でお話してきましたが、現代日本において広域流通が圧倒的な力を持っており、域内流通がかなりマイナーな存在となっていることは言うまでもありません。しかし、僕は日常的な「食」の流通においては域内流通をもっと復権させた方が良いと思っていますし、広域流通の中に域内流通の持つ長所を組み込んでいく必要性も感じています。勿論、広域流通が主で、域内流通が従となるのは現在の社会状況から見て仕方のないことだと思いますが、それぞれを相互補完的な関係にしていければ理想的ですね。


 21世紀の流通は、これまでコストとは考えられてこなかったもの、例えば廃棄物の回収・処理に要する費用や、リサイクルに要する費用、モノの移動に際して発生する環境への負荷といったことも全てコストとして考えねば成り立たなくなってくるでしょう。そうした中で、果たして広域流通が本当に合理的で低コストであるのかを検証していく必要があります。恐らく正しい考え方は「モノは必要最小限しか動かさない」ということになるように思います。


 特に僕は日常的に口にする食べ物については、顔の見える範囲内で流通させる方が食品の安全性と信頼性をより高めると思いますし、それによって「むら−まち」の関係の再構築、すなわち地域のアイデンティティ作りや活性化が可能になってくるのではないかと考えています。また、こうした流通が再構築されてくると、食材を生産・供給するむらの環境を守ることと持続的開発を維持することは、むらの住民、まちの住民双方にとっての共通の課題となる筈です。他方、これは今申し上げた話とは全くコンセプトを異としますが、インターネットの普及によって、広域流通がより顔の見えるものとなっていく可能性もあると思います。 

                            
 僕はこれまでに東南アジア、特にインドネシア各地の市場(パサール)を見て回ってきましたが、そこではまだ域内流通の方が主流です。勿論、工業製品の多くは広域流通ですから、調味料でも化学的なものは広域流通です。ただ、日常的な食材は圧倒的に域内流通で流れていると思います。他方、僕が最近最も興味を持っているのはヨーロッパなのですが、ヨーロッパの大都市郊外にある小規模のまちでは、まだ「むら−まち」間における食材の域内流通が結構活発ですね。


 僕は今までずっとロジスティクスと貿易の仕事に従事してきたのですが、これからは広域流通と域内流通のバランスが重要になってくると思います。そして、自分自身はもっと域内流通に携わっていきたいと考えており、殊に「食」の域内流通を通して、エコロジーとエコノミーの調和を図っていくことには大変強い関心を持っています。東南アジアやヨーロッパの事情などを参照しながら、日本の地域にあった域内流通を再構築していければいいなと思うのですが、是非皆さんのご意見などもお聞かせください。ご清聴いただき、ありがとうございました。


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