拓海広志「アンボン旅日記(4)」

 これは今から10数年前のある年の暮れから翌年始にかけて、インドネシアのアンボン島周辺を旅しながら書いた日記からの抜粋です。


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★1月2日

 朝5時半に起床。宿のおかみさんと息子さんにアマハイの船着場まで送ってもらう。今日はここから対岸の小島サパルアへ渡ろうというのだ。

 アマハイからはサパルア、ハルク、アンボンの島々に向けて船外機付きのボートがひっきりなしに出ているのだが、サパルア北岸のノロまでは1人7千ルピア(約320円)である。ボートはトビウオの飛び交うセラム海峡を一気に横切りノロに向かった。

 サパルア島はその周囲を珊瑚礁に囲まれた美しい島々だ。ノロの浜辺に上陸すると漁を終えた漁師たちがくつろいでいるところであった。僕はそこら中から駆けてきた子供たちに囲まれながらも、漁師たちにどこか泊まるところはないかと尋ねてみた。すると、「マフという村にホテルがあるよ」との答えが返ってきたので、ベモに乗ってそこを目指すことにした。

 マフ村に着いた僕がべモの運転手に教えられた通りに教会横の路地を入って行くと、そこには「クラパ・インダ」という名のコテージがあった。どうやらここはダイバーを対象としたホテルのようで、2ダイブ込みの1泊2食付きで75ドルとのことであった。話の種に午後から1本だけ海に潜ってみることにし、とりあえずここに投宿することにした。

 ホテルのオーナーが日本のダイビング雑誌を持ってきてくれたので目を通してみると、驚いたことにこの小さなホテルとタイアップして「サパルア島ダイビングツアー」なるものを組んでいる旅行社があるようだった。

 「ここに来る日本人はまだ少ないが、いずれにせよほとんどがこのツアーの参加者だ。あんたみたいにいきなりセラム島から渡ってきた人は他にはいないな」と言ってオーナーは笑った。

 僕はホテルにチェックインしたあと、サパルアの島内を少しまわってみることにし、まずは地元の人々から「ベンテン」と呼ばれているオランダ植民地時代のフォート跡へ行ってみた。

 フォートの上からはサパルア湾がきれいに見渡せたが、そこには幾つかのバガンも浮かんでいた。あとでホテルのオーナーに聞いたところ、サパルアの漁師の大半はブギス人とのことだった。

 それから島の中心地とも言うべき小さな商店街を歩いてみたが、これらの商店は全て華人が経営するものであった。

 商店街の真ん中に市場があったので少しのぞいてみる。売られていたのは各種の雑貨類や野菜のほかに、サゴ澱粉、椰子砂糖、煙草の葉、キンマの葉、ビンロウの実、シナモン、トビウオ、アジ、イワシなどといったところだ。

 それから陶器作りで知られるオウォという村まで足を伸ばしたが、その道沿いには丁子やナツメグが栽培されており、道端には丁子の花蕾が干してあった。乾燥した花蕾はT字型をしているが、これが丁子の名の由来である。少し失敬して口に含んでみたところ、焦げつくような辛さが口の中に広がった。

 山田憲太郎さんの『香料の道』によると、18世紀末になって東アフリカのザンジバルに移植されるまでの間、丁子もナツメグもマルクのモルッカ・バンダ諸島以外は世界中のどこにもなかったという。

 香料のビッグスリーとはモルッカの丁子、バンダのナツメグ、それにインドとセイロンのシナモンのことで、インドのマラバルとスマトラカリマンタンで採れる胡椒は別格扱いになっているのだが、これらの香料をめぐってヨーロッパの列強が東南アジア、南アジアにおいて激しい覇権闘争を行ってきたことを思うと、人間の歴史というのは実に奇妙なものだという気がしてくる。

 ちなみに丁子は1世紀には既にインド、中国、ローマにまで運ばれていたそうだが、いったいどういう人たちがどのようにして運んだのやら興味は尽きない。

 インドの南部を旅すると、ドラヴィダ系の人々が話す言葉(恐らくタミル語だったろう)の中にマレー語と共通する単語が少なくないことに気がつくが、インド洋を舞台としたインドとマレー半島インドネシアの島々の間の交流・交易史というのは非常に興味深いテーマだ。

 僕はそこでアンダマン海ニコバル諸島が中継地としてどのような役割を果たしてきたのかが非常に気になっており、機会があればそこを訪ねたいと思っている。

 家島彦一さんの『海が創る文明』によると、1〜7世紀にかけてはクメール族がメコン川下流域に築いた扶南国がインドとインドシナ間の交易・輸送を担い、他方これに対抗する勢力としてシュリーヴィジャヤがマラッカ海峡を制していたという。

 つまりクメールが「インドシナ−シャム湾−マレー半島ベンガル湾」というネットワークを持っていたのに対して、シュリーヴィジャヤは「マラッカ海峡ニコバル諸島−ガンジス河口−セイロン」というネットワークを持っていたというのだ。

 すると、スマトラまで運ばれてきていた丁子をニコバル諸島経由でインドにもたらしたのはシュリーヴィジャヤの航海民だったことになるのだが、それではそれをモルッカからスマトラまで運んでいたのはいったい誰だったのだろうか? 疑問は尽きない。

 島を一巡りしたあと、ホテルに戻って昼食をとった。ふと見るとホテルの庭にもナツメグの木は生い茂っており、実もたくさんなっている。それを一つもぎ取り、緑色の外皮をナイフで切り裂いてみると鮮やかな真紅の仮種皮に包まれた黒色の種子が出てきた。

 この種子こそがナツメグと呼ばれるものであり、仮種皮の方は数多い香料の中でも特に珍重されてきたメースである。

 ナツメグは中国では香料としてよりもむしろ薬物として用いられてきたのだが、インドネシアでもナツメグはジャムゥ(民間薬)の原料として重宝されており、消化力促進、下痢止め、泌尿器障害、熱、咳、喘息、心疾患、腹痛、子宮疾患、麻酔、睡眠誘発などに効能があるとされている。

 他方、丁子も鎮痛、解熱、食欲増進、月経促進などの効能があり、ジャムゥの原料に用いられるほかに、「グダン・ガラム」という煙草の原料としても有名である。

 ホテルのオーナーに頼んでノロ沖にボートを出してもらい、ダイビングを楽しむ。海中の珊瑚や海綿はその一つ一つがとても大きく育っており、海がきれいで栄養が豊かであることがうかがえた。

 ホテルのダイビング・ガイドによると、サパルア周辺で一番面白いポイントはサパルア島の南西沖に浮かぶヌサ・ラウトという島の北東沖だそうで、また機会があれば潜り直してみたいものだ。

 その後、小さなカヌーを借りて少し漕いでみたのだが、潮風が心地よくて爽快だった。今回のアンボンの旅に出る前にエッセイストの野田知佑さんがジャカルタに来られたので、ジャティルフル湖というところで一緒にカヤックを漕いだのだが、僕はインドネシアでもよくカヤック遊びを楽しんでいる。でも、やはりここの海にはアウトリガーのついたカヌーの方がよく合う。

 海から上がった僕は再びべモに乗って町へ向かう。実は朝乗ったべモの運転手が「秘密の温泉を知っている」と言うので、そこへ連れて行ってもらうことにしたのだ。

 町のベモ・ターミナルでその運転手を捜し出し、車をチャーターすることにした。べモは町外れまで僕たちを運んだのち、道から外れて林の中に入り、草むらを走り抜けて止まった。そこから先は火山岩の崖を歩いて下っていく。急に硫黄の匂いが鼻をついたかと思うと、小さな池が眼前にあらわれた。温泉である。

 「どうだい? ここはこの島の人間でも知っている者はほとんどいないぜ」とべモの運転手が自慢げに言った。

 僕はいったん服を脱いだものの、池の中には何本もの朽木が倒れていてゆっくりと身体を横たえられるような状態にはなっていなかったし、湯の温度がかなり高くて耐えられそうになかったので、池の縁に腰掛けて温泉の湯をタオルに含ませては身体を拭いてみることにした。

 ところが、この作業を20分ほども続けているととても心地よくなり、アンボンに着いてからずっと直射日光の下でうろうろしたりダイビングをやったりで日焼けしてヒリヒリと火照っていた肌がスッと涼しく爽快になってきたので驚いた。これはもしかしたら皮膚の炎症に対して効能のある温泉なのかも知れない。


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海が創る文明―インド洋海域世界の歴史

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