拓海広志「アンボン旅日記(2)」

 これは今から10数年前のある年の暮れから翌年始にかけて、インドネシアのアンボン島周辺を旅しながら書いた日記からの抜粋です。


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★12月31日

 朝、早起きをしてアンボン市内の新旧二つの市場をのぞいてみたが、断然面白かったのは魚市場が主体となっているゴトン・ロヨン市場(旧市場)の方だ。

 売られている魚のうち圧倒的に数が多いのはカツオとアジで、カツオは生鮮と燻製の二通りが見られた。また、アオウミガメも十体ほどが解体されており、肉と卵、内臓が豪快に並べられていた。

 その他に目についたのはフエダイ、タチウオなどだが、エビ・トロール漁の盛んな土地柄にしてはエビはほとんど見当たらない。この産業はやはり輸出に特化してしまっているのだろう。

 また、この地域を「香料諸島」として世界史上で有名にした丁子(クローブ)やニクズク(ナツメグ)も市場では全く見られず、むしろビンロウの実とキンマの葉という「インド−東南アジア−太平洋」の文化的つながりを示す組み合わせの方がよく目についた。

 市場の裏手の舟だまりにつけられた小舟からはココ椰子の実が陸揚げされていたが、これらは全てアンボン島の北側に浮かぶセラム島から運ばれてきたものだという話だ。

 宿に戻ってから車を呼び、アンボン島東岸のトゥレフ港を目指す。ここから出ているフェリーに乗ってセラム島に渡ろうというのである。

 アンボンからパソを抜けてトゥレフへ至るにはスリという村から内陸の道を行くのが近道なのだが、僕はあえてスリからテンガテンガという漁村を通ってトゥレフに至る沿岸沿いの道を行くことにした。

 運転手によるとこの道はかつて日本軍が切り開いたものだというが、崖の上から群青のバンダ海を眺めて走るドライブはなかなか快適である。途中テンガテンガの村に寄り道したところ、村中の人々が集まってきて大変な騒ぎになってしまった。

 僕は子供たちに誘われるままカヌーに乗せてもらい、彼らと一緒に少し遊んだのだが、透き通った海の美しさは素晴らしく、しばらくここに滞在してみたいという気にさえなった。この村の人々の多くはイスラム教徒とのことで、村には立派なモスクも建てられていた。

 テンガテンガを後にした僕は一路トゥレフへ向かった。トゥレフ港周辺の海にはかなり大きなバガン(敷網)が幾つか設置されていたが、よく知られているようにバガンインドネシア各地に普及させたのはブギスの人々である。

 インドネシアを代表する海洋民のブギスはマルク各地にも足を伸ばしており、汽帆船ピニシを使ったジャワ−東カリマンタン−南スラウェシ−マルク間の交易は今もなお盛んに行われている。

 トゥレフからセラム島の南西岸にあるカイラトゥまでは日中約2時間おきにフェリーが出ており、船賃は1700ルピア(約80円)だった。僕が乗り込んだ船は日本の中古船で、船内で見つけた古い船籍表示盤には「船名:第八かんおん」「船籍港広島県因島港」と記されていた。かつては瀬戸内海で活躍した船だったのだろう。

 正月休みで故郷のセラム島に帰る人々の群れで船内はほぼ満杯の状態だったが、デッキで潮風に吹かれているとそれも苦にはならない。2時間半ほどで船はカイラトゥの桟橋に着いた。

 ほぼ全域がジャングルに覆われたセラム島だが、その西部には東洋でも最大級のワイサリサ合板工場があり、日本・韓国・台湾人技術者たちの指導の下、ジャワ・ブトン人の入植者たちが5千人ほど働いている(ちなみにセラム島全体の人口は約10万人)。

 島で一番大きな町は中南部に位置するマソヒであり、ここが今夜の宿泊予定地だ。カイラトゥからマソヒまでは細い林道を70キロほども走り抜けねばならいので、僕は10万ルピア(約4500円)でベモ(乗合タクシー)をチャーターし、マソヒへ向かうことにした。

 セラム島は「伝説と魔術の島」として知られるところで、島にはテレポーテーション能力を持つ人がいるとも言われている。

 細い林道を走っていると突然草むらの中から手槍や弓矢を抱えた男たちがあらわれ、中には猟の獲物の猪をかついでいる者もいた。縮れた髪の毛や顔かたちの印象からして彼らはマレー系の人々ではなく、この島の先住民アルフル人だろう。

 インドネシアの諸民族は主として東南アジア大陸部から移民してきたマレー系の人々をルーツとしているのだが、それには大きく分けて二つの波がある。

 一つは紀元前2500年頃の旧マレー系の人々の波(スマトラのバタック人、ニアス島のニアス人、カリマンタンのダヤク人、南スラウェシのトラジャ人などがその名残)、もう一つは航海術に長けていた新マレー系の人々の波(ジャワ、バリ、ミナンカバウ、ブギスなどの諸族)である。

 両者の関係は縄文人弥生人の関係ともやや似ており、前者は後者が入って来た時に山奥や離島などの僻地に追いやられてしまったようだ。

 しかし、マルクやその東に位置するイリアン・ジャヤの場合はもともと旧マレー系の人々の移民の波が及んでおらず、それよりも古い時代に渡っていたパプア・メラネシア系の人々がその住民の基層をなしており、マレー系の人々がマルク域に入ってきたのは13〜15世紀頃のことだと言われている。

 セラム島の山中にはこのメラネシア系のアルフル人(あるいはナウル人)と呼ばれる人々が多く住んでいるのだが、先述の魔術も彼らの間で伝えられてきたものなのである。

 古来マルクにはスマトラやジャワ、南スラウェシに見られたような強大な勢力や版図を持つ帝国は存在しなかったが、マレー系諸民族の移住と同時にジャウィ(マレー語をアラビア文字を借用して表記したもの)とイスラム教も伝えられ、その頃に北マルク諸島のテルナテ島とティドレ島に相次いで王国が成立したと言われている(両島ともにハルマヘラ島の西に浮かぶ小さな火山島である)。

 対立関係にあった両国はやはり敵対関係にあったスペイン、ポルトガルとそれぞれ結んだため、その対立関係はさらに増幅されていったという。

 しかし、さきにふれた「アンボイナ事件」を契機にマルク全域はオランダの支配を受けるようになり、1654年にはティドレ王国が東インド会社に征服されて単なる名目的な存在に成り下がり、テルナテ王国の方も1683年の反乱を鎮圧されてから同社の直接的な支配下に入った。

 テルナテ、ティドレ両王国が成立した背景にはイスラム教を携えてマレー人たちが入ってきたことと、これらの島々が丁子(クローブ)の一大産地であったことがあると思うのだが、香料を産出しないセラムは王国の形成とも縁遠い島であったようだ。

 3時間ほど走っただろうか。ようやくマソヒの町に着いた。三階建て以上の高い建物の見られない小さな町である。ベモの運転手の紹介でベイロヒ・インダという名のロスメン(民宿)に投宿する。

 老夫婦が経営するこの宿には正月休みで息子たちとその家族が大勢帰省しており、大変な賑やかさだった。特に子供たちは外国人が珍しいらしく、ひっきりなしに押しかけてくる。

 「肝っ玉母さん」といった感じの大柄な女将さんはセラムの風俗やナウルの人々に関する話を聞かせてくれ、ナウル人は主として島の中・東部の山岳地帯に住んでいるが、マソヒの近くにもボナラ、ロウファなどの集落があるからと、息子さんに明日車で僕をそこに案内するよう頼んでくれた。日本でもそうだが、大きなホテルよりも民宿に泊まる方がその土地の文化や生活のことはよくわかるものだ。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)





【テンガテンガ村にて】


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