拓海広志「アジア四方海話(6)」

 1998年2月に大阪で開催された太平洋学会の会合でお話をさせていただきました。いつものごとく出たとこ勝負の四方山話ならぬ四方海話ではありましたが、その内容をここで紹介させていただきます。


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 話がかなり駆け足になったにもかかわらず、最後までたどり着くことが出来ず申し訳ありませんでした。続きは二次会の方に回させていただいて(笑)、とりあえず少しだけ質疑応答の時間をとらせていただきたく存じます。


Oさん:インドネシアは重層的な移民の波を受け入れてきた歴史を持っており、それ故に多様な民族と文化が存在するというお話がありました。一方、日本も本当は同じ筈なのに、日本人は自分たちの持つ多様性を認めようとしません。インドネシア人は自分たちの民族・文化の多様性を認識しているのでしょうか? また、もしそうならば、日本とインドネシアはどうしてそんなに違うのでしょうか?


拓海:最初のご質問に対する回答としては、インドネシア人は自らの多様性を認識しており、だからこそ建国理念の中にも「多様性の中の統一」というフレーズがあるのだと思います。僕はインドネシアに関するエッセイを書く度に、インドネシアのことを「キラキラの国」と称するのですが、「キラキラ」というのはインドネシア語で「アバウト」ということを意味しています。インドネシア人というのは概してキラキラ主義者が多いのですが、これは多様な人々が入り混じった社会において摩擦を少なくするための緩衝剤のようなものなのかもしれないと僕は思っています。


拓海:多様性を認識するというよりも、多様であることを積極的に肯定するという思想は東南アジアに遍在しています。それぞれに異なる個性を持つ枝や葉が集まることによって巨大な生命樹が形作られていくといった世界イメージは東南アジア特有のものであり、勿論インドネシアもその例外ではありません。この生命樹の中での多様性を容認するとともに、多様性が失われると生命樹そのものが枯れてしまうんだという考え方は、昨今の生態学の考え方とも重なってくるように思うのです。


拓海:日本との比較論が出てきましたが、日本も元々はかなり多様性に満ちた社会であったことは間違いありません。ただ、そうはいってもインドネシアのようにひっきりなしに様々な人々が行き交った世界と比べると、やはり極東の辺境と言わざるをえないのかもしれません。日本人が何故多様性を否定するようになったのかということについては、今日の二次会でお酒の肴にできそうですので、後に取っておきましょう(笑)。

        
嶋俊介さん:インドネシアと日本では統一国家の形成過程が大きく異なりますしね。


拓海:おっしゃる通りですね。しかし、現在のインドネシアという国家は「インドネシア人」「インドネシア文化」「インドネシア語」という、共通のバックグランドを無理矢理作り上げようとしていることも事実です。ですから、伝統的に多様性を容認するインドネシア社会のあり方と、近代国家としてのインドネシアが駆け足でやろうとしていることの間にはかなり相違があります。


長嶋さん:かつてヤップで石貨交易航海再現プロジェクトが行われた際に、1年間ヤップに滞在された田中さんが来られていますので、一言コメントをいただけませんか?


田中拓弥さん:拓海さんの話に付け加えることはあまりないのですが、私が感じたことの中にヤップ社会とパラオ社会の相違ということがありました。ヤップは物質的なものはともかくとして、精神的にはまだかなり伝統的な要素の残っている社会ですが、パラオの方はかなりさばけているといった印象を受けました。同じミクロネシアでも随分違うものだなあと感じたものです。


和田雅夫さん:ヤップではもう石貨は作らないんでしょうか?


拓海:石貨の価値がカヌーに乗って苦労して海を渡っていくことによって決定づけられることを考えると、現実問題として今後新しい石貨が作られることはないかもしれません。僕たちが今回パラオで作った石貨というのは、ヤップにとっては100年ぶりにもたらされたものなのです。少し余談になりますが、今ヤップへ足を運び、そこにある石貨を見る時、その大きさに驚くことはあっても、それを美しいと思うことは少ないでしょう。ところが、今回作られた石貨の結晶が太陽光線に反射するさまを見て、僕は何て美しいんだろうと感じました。風化する前の結晶石灰岩というのは美しいものなのですね。


長嶋さん:かつてオキーフというドイツ人が機帆船で石貨を運ぶということをやり、それが一時的にヤップで石貨のインフレをもたらしたものの、そのうち誰も彼が持ち帰った石貨に対して価値を認めなくなったという話がありますね。


拓海:そういう石貨には物語性が欠落していますからね。


長嶋さん:今日はヨットマンの高橋素晴さんも来られているようなので、紹介していただけますか?


拓海:はい。高橋素晴さんは中学3年生だった2年前の夏に、ヨットに乗って太平洋を単独横断しました。現在はヨット三昧の生活を送っているのですが、素晴君、少し自己紹介をしていただけますか?


高橋素晴さん:拓海さんのお話の中に「人は何故海を渡るのか?」ということがありましたが、僕はヨットを始めた小学生の頃から太平洋を渡ってみたいと思っていました。その思いが強くなったのは中学2年生の頃だったのですが、当時僕のヨットの先生に「何故海を渡りたいのか言ってみろ。人間を口説けないようなら、自然を口説くことは出来ないぞ!」と言われたことを覚えています。結局のところ、僕は「何故渡るのか?」ということを説明できぬまま何となく太平洋を渡ってしまったのですが、航海が終わった直後に何かが始まったと感じました。拓海さん流に言うと「言葉にならない言葉」が自分の魂の中に湧き上がってきた感じです。今回の航海は、途中で電気系統が駄目になったため、自動操舵装置やGPS、通信機などが全く使えなくなりました。その時は少し心細かったのですが、今から思うとそのおかげで僕は自然と一体感を感じることが出来たように思います。そして、自分が自然の中でいかにちっぽけな存在であるかということも痛感しました。


拓海:素晴君、どうもありがとうございました。では、ちょうど区切りもよろしいようですので、このへんで僕の話を終わらせていただきます。どうも、ありがとうございました。


 ※関連記事
 拓海広志『素晴の「帆」に思いを込めて・・・』
 


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