拓海広志「アジア四方海話(5)」

 1998年2月に大阪で開催された太平洋学会の会合でお話をさせていただきました。いつものごとく出たとこ勝負の四方山話ならぬ四方海話ではありましたが、その内容をここで紹介させていただきます。


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 次に海と山の関係性ということについてお話しします。日本もインドネシアも島国ですが、島においては海と山が生態学的にも文化的にも深い関係性を持ちます。ミクロネシアや東南アジアの海民たちは法螺貝をお互いの合図のためや、神や霊と交流する際の呪具として使っており、日本の山岳修験者たちもそれと同様の目的のために法螺貝を吹き鳴らしています。こういう海と山の連続性や関係性に関する話は日本でもインドネシアでも様々な事例があるのですが、今日は時間がないので省かせていただきます。

        
 インドネシアには当然のことながら、海洋指向性の強い民族が数多くいます。海人に対する畏敬と差別というのは世界中どこへ行ってもありますが、インドネシアも例外ではありません。インドネシアを代表する海洋民族としてはブギス人やマカッサル人がいるわけですが、海人は商売で身を立てているケースも多く、特にブギス人は商才があることでも有名です。ところが、同じ海人の中にもさらなる差別があって、ブギス人やマカッサル人は同じスラウェシの南部に住むマンダール人を一段下に見たりします。そんな中で最も低く見られがちなのが、恐らくバジャウの人々でしょう。


 バジャウというのは家船を住処として海を漂う「漂海民」です。彼らは主としてスールー海やセレべス海を行き来しているのですが、そこはフィリピン、マレーシア、インドネシアブルネイといった4カ国が隣接する海域です。それぞれの国が中央集権的に近代国家の体裁を整えていく中で、国境を無視して海を彷徨いながら、魚介類をとったり、物を運んだり売買したりして生活しているバジャウの存在は、目障りなものとなってきているようです。それでこれらの国々はいずれもバジャウを定住させ、自国民にすべく様々な努力をしています。

        
 それから、インドネシアと日本の関係を考える時に忘れられないのは、伊勢・熊野地方の人々とのつながりについてでしょう。南紀に住む人々は昔から比較的簡単に海に乗り出して行く傾向があったのですが、特に明治以降の海外移民や海外出稼において彼らが果たした役割の大きさは特筆に値します。例えば太地ではいわゆる「背美流れ」によって鯨組が崩壊した後、捕鯨者たちがアメリカやオーストラリアに移民してしまったという歴史があるのですが、彼らが持ち帰ったノルウェー式の捕鯨技術が後の日本の南氷洋捕鯨を支えていくことにもなりました。


 また、南紀の海人たちは真珠養殖のダイバーとしてもアラフラ海などで活躍してきました。現在でも真珠養殖は東インドネシアの島々で行われており、旅の中であっと驚くような辺鄙な場所で頑張っている日本人の姿を見かけることもあります。先ほど紹介したバジャウは潜水漁を行うことでも知られているのですが、その能力を買われて真珠養殖業者のもとで働くこともあるようです。南紀の海人と東南アジアの漂海民が東インドネシアの小島で共働しながら真珠を作っているというのはなかなか興味深い話です。

        
 駆け足でお話ししていても、もうほとんど時間がなくなってきたようですが、最後に1人紹介しておきたい人物がいます。その人とはスラウェシ北部にあるミナハサ半島の突端の町マナドに住むジョン・ラハシアさんです。


 インドネシアというのは約250の民族からなる国なのですが、その中で政治的なイニシアティブを取ってきたのはジャワ人です。ミナハサ人はかつてフィリピンのミンダナオ島の方から移住してきた人々であり、他のマレー系インドネシア人とは顔つきもかなり違っています。インドネシアの地方には歴史的にアンチ中央、アンチ・ジャワ、アンチ・ジャカルタといったムードを持つ場所が幾つもあるのですが、マナドはかつてその最右翼だった場所です。


 マナドとミンダナオ島のへネラルサントスの間には沢山の小島があり、そこはサンギール・タラウド諸島と呼ばれています。サンギール・タラウドはインドネシアの東北端にあたる場所で、ここからミクロネシアの南西端に位置するパラオ諸島まではそう遠くありません。かつてモンゴロイドが東南アジア島嶼域を後にして太平洋に移民拡散して行った際、出発地となったのはこのあたりの海域ではないかという学者が増えてきているようですが、ラハシアさんはかなり以前からそのように主張していました。


 「ラハシア」というのはインドネシア語で「秘密」という意味なのですが、彼はサンギールの貴族の子孫として生まれ、マナドあるいはその沖に浮かぶシラデンという島で育ちました。ラハシアさんは太平洋戦争の頃は日本軍から兵士としての訓練を受けたそうですが、独立戦争の時にはスカルノ前大統領のブレーンの1人として大活躍したといいます。ラハシアさんは早い時期に軍人を引退し、独学で学問の道に専念するようになるのですが、その理由はかなり面白く、トール・へイエルダール氏の唱えた「ポリネシア人の南米渡来説」が世間の耳目を集めていた頃に、そんなことはありえないと直観したスカルノ大統領がラハシアさんに対して「ポリネシア人のルーツがインドネシア人であることを証明できないか?」と持ちかけたことが契機となったそうです。


 かくて、ラハシアさんが独学の中で研鑽を積み、世に出したのが「タガロロジー」という学説です。要点だけを言いますと、彼はマレー半島、東南アジア島嶼域から太平洋の島々全てを包括するマレー文明圏というものを想定し、そこにおける文化的共通性をもっと強調すべきだと言うのです。また彼は地中海の海神オーケアノスの名をとった「オセアニア」という名称を廃し、ポリネシアの海神タンガロアの名を復興させるべきだと主張します。サンギールでも海神の名はタガロアであり、フィリピンのタガログという語にもかつては海神という含意があったそうですが、彼はタンガロアを神として崇める海域を1つのまとまった文明圏としてとらえるべきだと主張したのです。


 インドネシアの地方を旅すると、ラハシアさんのようにユニークな強者(つわもの)と時々巡り会うことができますが、それがまた旅の楽しみの一つですね。ラハシアさんに可愛がられている人の中にニュージーランド人の冒険家ボブ・ホブマンさんがいます。彼はかつてダブル・カヌーに乗ってフィリピンからマダガスカルまでの大航海を成し遂げたことで有名な人なのですが、彼もラハシアさんの「タガロロジー」に触発されており、次はマナド沖からミクロネシアメラネシアポリネシアニュージーランドを目指す航海の計画を練っているようです。

        
 もう残り時間がほとんどなくなってしまいました。今日の話の最後に、鶴見良行さんが遺された大著『ナマコの眼』を読む会のことを紹介させていただきます。


 鶴見さんはかつて『バナナと日本人』という本をお書きになりましたが、これは村井吉敬さんの書かれた『エビと日本人』と共に、アジアの生産者と日本の消費者の間の関係性が持つ不健全さを告発する書として社会に大きな影響を与えました。『ナマコの眼』はそれらとは少し異なっており、そういう近代的な経済原理のもとで行われる流通には属さず、かと言って伝統的な社会における儀礼的あるいは物々交換的な流通とも異なる、全く違った形の流通がアジア各地で行われたきたことを明るみにしました。


 ナマコというモノを媒介とした人の動きを追って、鶴見さんはどんどん辺境の地へと足を踏み入れて行くのですが、その作業を突き詰めていくと、どこが中心でどこが辺境かという区別は少しぼやけてきます。そして東南アジアの島嶼域には、中央集権型ではなく、ネットワーク型の世界があったことが徐々に見えてくるのです。近代以降の歴史学というのはどうしても国家史的な様相を呈しやすく、新興国の多い東南アジアでもその傾向が強いのですが、『ナマコの眼』的な観点からアジアの歴史の書き直しが出来れば、アジア史はもっと色彩豊かなものになってくるのではないかと思います。この「読む会」についてご関心のある方は是非ご連絡ください。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【ボブ・ホブマン夫妻と共に。バリ島サヌールのサリタ・ニューソンさん宅にて・・・】


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