拓海広志「アジア四方海話(3)」

 1998年2月に大阪で開催された太平洋学会の会合でお話をさせていただきました。いつものごとく出たとこ勝負の四方山話ならぬ四方海話ではありましたが、その内容をここで紹介させていただきます。


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 ところで、僕がヤップの人々と話をする時に使う言語は日本語か英語です。僕はヤップ語を話せないので、ヤップ語を使うことはありえません。ミクロネシアはかつて南洋群島として日本の統治下に置かれていましたので、ヤップでは65歳以上くらいの老人は片言の日本語を話すことができるのです。他方、米国がミクロネシア信託統治するようになってからは学校では英語が使用されていますので、若い世代は英語を話すことが出来るわけです。僕はマープという島の元酋長ベルナルド・ガアヤンさんに大変お世話になっていたのですが、彼と話すときは全て日本語で事が足りました。

        
 ある夜、ガアヤンさんと話をしていたところ、彼が石貨にまつわる話をしてくれました。ヤップの村々を歩くと、小さいものは直径50センチ、大きいものだと直径2メートルを越える石貨が置かれているのをよく目にします。かつてヤップの航海者たちはカヌーに乗って南西約500キロのところに浮かぶパラオ諸島へ渡り、そこにある結晶石灰岩を切り出して石貨を作り、それをヤップへ持ち帰ったと言われています。石貨の価値は大きさや美しさだけではなく、その航海や石貨作りに伴う苦労の度合いによって決まります。つまり個々の石貨に付随している物語がその価値を決めるわけです。


 大きな石貨は島内の一定の場所に置かれると、あたかも不動産の如く扱われます。かつて人々は石貨の一つ一つから自分たちの祖先の物語を読みとって生活し、島民の誰もが個々の石貨の所有者を認識していたといいます。ところが、石貨に付随する物語を共有し、その所有権を重視する世代と、日常的に使用される米ドルが全てであり、石貨には価値を認めようとしない世代とのギャップが近年非常に大きくなってきていると、ガアヤンさんは僕に語ってくれたのです。そして、彼はパラオとの石貨交易航海を再現し、若者たちにヤップの航海者魂を教えてやりたいという夢を語ったのでした。


 僕はその話を聞いた時、ガアヤンさんが個人的に抱いているノスタルジーなのかなとも思ったのですが、その後多くの酋長や長老たちと話をするうちに、こうした思いは老人たちの間で広く共有されていることを知りました。彼らが言うには日本が統治していた頃には色々と辛い思いもしたが、少なくとも日本人は物づくりを教えてくれた。一方、米国は物を恵んではくれるが、物づくり自体は教えてはくれない。むしろ、それによって自分たちが伝統的にやってきた生活のあり方が失われ、これからの若い世代の行方が憂えてならないとのことで、石貨の持つ意味を後世に伝えたいとのことでした。

        
 彼らとの間で石貨交易航海に関する話が進むにつれ、やがて彼らは僕に対して航海の再現に力を貸してくれないだろうかと言い出すようになり、僕もそれはなかなか面白そうだなあという気になってきました。もっとも、元々僕はそんなことをするためにヤップへ足を運んでいた訳ではありませんでしたので迷いもあったのですが、それでもこれを機に一からカヌーを建造し、実際の航海も出来るということであれば、僕自身の最初の関心事とも重なってきますし、何よりもまずガアヤンさんを始めとする古老たちの意気に感じたのです。


 そこで、僕は自分が世話役代表を務める海洋サロン「アルバトロスクラブ」の仲間たちにこの話をしました。その結果、岩崎博一さん、藤本博康さん、杉原進さん、原哲さんをはじめとする多くの方が名乗りをあげてくれました。僕たちはその有志によってチームを作り、プロジェクトを推進することにしたのですが、特にプロジェクト実行委員会の事務局を引き受けてくださった岩崎さんと藤本さんは大車輪になってくださいました。

        
 しかし、いざプロジェクトを始めるとなると、問題は山ほどありました。まずカヌーを一から作るとなるとそれにふさわしい巨木を見つけなければなりませんし、ヤップ島にいるごく少数のカヌー大工にその建造を依頼しなければなりません。ところが、ヤップには既に貨幣経済が浸透していますから、そうした大工も長期間にわたってただ働きをすることは出来ず、当然労働への対価としての現金が必要になってきます。


 ヤップには「木の本来の姿はカヌーであり、木は早く成長して本来の姿にしてほしいと願っている」という伝承があり、カヌーの建造は木が成長するのと同じくらいのゆっくりしたペースで進めなければならないという教えもあります。僕たちのコンセプトは出来るだけ昔のままのやり方で石貨交易航海を再現するということでしたので、カヌー作りには長い時間と相応のお金を要することになりました。


 最初僕たちは幾つかの企業や助成財団に資金援助をお願いしてみたのですが、そうしたところは航海が確実に実現するという前提がないとお金を出していただけないということがわかりました。僕たちには日本側が一方的にプロジェクトをリードして、あたかもヤップの人々を雇うような形でそれを実現させる気は全くありませんでした。あくまでもヤップの人たちが自分たちの流儀とペースでプロジェクトを進めていくのを後方から支援するというのが僕たちの考えでしたので、航海が実現するのが何年後になるのか、はたまた途中で頓挫してしまうのか、率直に言ってわかりませんでした。それで最終的には有志で作ったプロジェクト・チームの面々が自腹を切って資金作りをすることになったのですが、もちろんヤップ側も我々に対して全て「おんぶにだっこ」だったわけではなく、自分たちの労働で賄える分については自発的に動いてくれました。

        
 カヌー作りの話から始めてしまいましたが、もう一つ前の段階での苦労はヤップ内部でのコンセンサスを取りつけることでした。ヤップには村ごとにヒエラルキーがあるという話を先ほどしましたが、小さな島だから心は一つだろうなどというのは大きな間違いでして、島には様々な思惑が入り乱れており、そう簡単には意見が一致しないのです。また、ヤップの場合は表側の顔であるミクロネシア連邦ヤップ州政府と、裏側の顔である酋長会議との間に微妙な関係があり、その両方において意見がまとまるまでにも長時日を要したのでした。


 僕たちがプロジェクトを実現できたのは様々な方の努力と支援のおかげですが、安易にヤップ側の特定の個人を窓口にせず、州政府と酋長会議を窓口にして全体のコンセンサスを得ながら物事を進めることができて良かったと思っています。また、今日この会場にも来られている田中拓弥さんが延べ日数にして約1年間ヤップに滞在してカヌー建造の記録をとるとともに、僕たちのヤップ駐在代表として機能してくれたことが非常に大きいと思います。彼なくしてこのプロジェクトは実現できなかったでしょう。田中さんが現地での融和役をつとめてくれたこともあり、様々な障害を乗り越えながら、原木を切り倒してから約1年半の歳月を経てカヌーは完成したのでした。それは僕がヤップの人々からこの話を持ちかけられてから4年後のことでした。

        
 こうしてカヌーが完成すると、今度は船長とクルーの選定でもめることになります。航海をサタワルの人々に任せてしまえば一番簡単なのですが、石貨交易航海はヤップ本島の伝統を担う重要なものであり、ヤップのヒエラルキーの中では低い位置にある彼らにそれを任せるのは気に入らないという意見がヤップ内部から出てきたりもしたのです。しかし、いろいろと討議した結果、船長はサタワルを代表する有名な航海者であるマウ・ピアイルッグに頼むことになり、クルーについてはサタワル島民を2名とし、その他にヤップ本島民2名、ウォレアイ島民1名、そして記録係の日本人1名を乗せるということで話がまとまりました。

        
 さて、これまでヤップ側の話ばかりをしてきましたが、航海の目的地である石貨の産地パラオの話をしていませんでした。最初にヤップ側からパラオ側に対して航海への協力を要請する手紙が送られてから、1年位は何も返答がなかったように記憶しています。パラオも表の顔はパラオ共和国となっていますが、他方ではやはりまだ酋長会議が大きな発言力を有しているといいます。


 ヤップの側から見るとパラオへの航海は勇気の証かもしれませんが、パラオ側から見るとヤップに領土を侵略されたという一面があることも否定出来ません。そうしたこともあってパラオ内部の意見も簡単にはまとまらなかったのです。最終的にはパラオの大酋長がこの航海を認めてくれたおかげで、パラオ側は非常に協力的になってくれ、僕たちのカヌーがパラオからヤップに向かって戻る前にパラオの「バイ・ラ・メタル」で開催された歓送会にも500人を越す人々が集まってくれました。

   
 航海の話をする時間があまりないのが残念なのですが、ヤップとパラオの間の航海は片道3日ずつの短いものでした。パラオで1月かけて作り上げた石貨も、ヤップで1年半の月日をかけて建造したカヌーも、共に島の共有財産にしてくださいということで、ヤップ側に寄贈しました。ヤップの人々はこのカヌーと石貨を青少年の教育のために使うことを考えているようですが、それは彼らがこの航海に託した本来の目的に沿う話なので、今後の展開が楽しみですね。

        
 こういう話を聞くとハワイのナイノア・トンプソンらがやっている活動のことを思い起こしてしまうのですが、ハワイ人のナイノアはマウ・ピアイルッグに弟子入りしてカヌーの航海術を学び、今ではホクレア号というダブル・カヌーの船長として太平洋を渡っています。彼はカヌーの航海術を学ぶことを通じてポリネシア人の伝統文化を蘇らせる運動を始めたのですが、やがて彼らの祖先がかつて持っていた自然との付き合い方を学ぶことによって、それをもう一つ高い次元でのエコロジー運動にまで発展させていきました。


 ナイノアたちが起こした運動のうねりは太平洋全体に広がってきており、それはミクロネシアのヤップにも影響を及ぼしているように思います。先日も僕はヤップの方から手紙をいただき、カヌーの建造や航海の様子を収めたビデオ・テープや写真、また田中さんがとったカヌーの建造記録などを全てヤップに寄贈してほしいと頼まれました。こうしたことからもヤップの人々がカヌーと石貨を教育に利用しようとしていることがうかがえて、嬉しくなりました。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【プロジェクト終了後にヤップ島で催されたパーティーにて。中央はジョー・タマグさん。向かって右がベルナルド・ガアヤンさん】




【カヌー「ムソウマル」の航海。交替で踏み舵を踏むクルーたち】


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