拓海広志「アジア四方海話(1)」

 1998年2月に大阪で開催された太平洋学会の会合でお話をさせていただきました。いつものごとく出たとこ勝負の四方山話ならぬ四方海話ではありましたが、その内容をここで紹介させていただきます。


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 ただ今ご紹介にあずかりました拓海広志です。どうぞよろしくお願いします。先ほど長嶋俊介先生のご紹介にもありましたように、僕は学問を専門にやっている人間ではありません。むしろそういう場所から縁遠いところで生きてきたものですから、このような講演においてもあまり学問的な話を期待されると困ってしまいます。従って、今日も自分の経験に基づきながら、四方山話ならぬ四方海風にお話させていただきたく存じます。


 今日は簡単なレジュメを用意させていただきましたが、ここに掲げてあるのは僕がここ十年ほどの間、強い関心を持って関わってきた事柄ばかりです。時間が限られておりますので、このうちのどれくらいをお話しできるかわかりませんが、この会合の後には二次会も予定されているようですので、この場で語り尽くせぬことはそちらでお話ししようと思っています(笑)。

        
 最初に「海の原体験」ということですが、僕は明石海峡を望む舞子の街で生まれ育ちました。そういうところで育つとどうしても毎日の遊び場が海になってしまうわけですが、明石海峡というところはあたかも川の如く潮の流れが早いところです。その潮に流されたり、逆らったりして遊びながら、陸の上から見る海の様子と、実際に身体を浸した時の潮の流れの違いを体感しながら海について学んだというのが僕の原体験です。そして、海に寄せる思いというのもその頃に芽生えたように記憶しています。

        
 ところで、僕は中学生の頃に日本史の研究会を作って活動していたのですが、遺跡や史跡をめぐる旅行への興味が嵩じて、十代のうちに日本の全都道府県を旅して回ろうという目標をもうけました。そして、その目標を達成した後に、自分の魂に対してとてもよく響いてきた場所が当時の熊野だったのです。


 日本史を概観してみると歴史の転換期になると、どうも熊野という土地がにわかに脚光を浴びるということがあります。また、中世には天皇家の人々は自らの政治力に衰えを感じると熊野の力を借りようともしました。でも、これは何故なのでしょうか?


 熊野というところは縄文的な文化要素を色濃く残した地ではないかと言う人がいます。また、南方的な文化との共通性を指摘する人もいますが、実際にかつての熊野にはそうしたことが実感されるところがありました。ただ、そういう土地というのは他にもあるわけで、何も熊野だけが特別という訳ではありません。しかし、僕は熊野という土地に妙に惹かれるようになり、十代の終わりから二十歳代前半の頃は毎月のように彼の地に足を運んでいました。


 熊野という土地の特徴は、何と言っても日本最大の半島だということであり、エリア的に非常に広いということがあります。この大きな半島の大半は果てしなく続く山で占められており、周囲は太平洋に取り囲まれています。そういう土地柄のせいもあって、熊野は古代より黄泉の国、魑魅魍魎が跋扈する地として仮定されているのですが、それには大和朝廷がかつて討ち滅ぼした人々の住む世界をそのように位置づけしたという面もあったのでしょう。かくのごとく山深くて交通の便が悪い辺境の地・熊野は、やがて古来のアニミズム的な信仰と仏教が融合したものである修験道の根本道場ともなります。


 僕がかつて日本史の研究会を作っていた頃に、熊野に対して最初に抱いた問題意識は「何故、江戸幕府は和歌山に御三家の一つを置く必要があったのか?」ということでした。それに対しては、大坂にはあまり大きな力を持たさずに和歌山から大坂を監視しようとしたとか、紀州林業をコントロールするためだったとか、幾つかの模範回答があるわけですが、どうもそれだけではなく、熊野あるいは紀伊半島が持つ奥深い力を抑え込んでおく必要があるとする中央からの視線があったのではないかと僕は思うのです。

        
 僕は新しい土地へ入って行くときには、まず「遊び」から入っていくことが多いのですが、熊野の場合も最初は熊野川カヤックで下ったり、山の中をうろうろと歩き回ったりしていたのですが、大峯山系などを歩いていると熊野の山の奥深さを嫌というほど思い知らされます。


 ある時、僕は本宮から大雲取・小雲取を越えて那智へ抜ける道、つまり中辺路をてくてくと歩いていたのですが、鬱蒼と続く杉林の中をひたすら歩いた後に、舟見峠と呼ばれる峠の上に出て、眼前に広がる真っ青な太平洋を見たときに、もの凄い開放感をおぼえました。そして、その時に熊野信仰の最も基層の部分にふれたような気がしました。


 少し話はそれますが、吉本隆明氏は『言語にとって美とはなにか』という本に初源の言葉というのは神と交流するための言魂的な呪言であったと書いています。そして、「原始人が奥深い山の中を彷徨い続けたあげくに海にたどり着いた時に、感動のあまり発した「うっ!」といううなり声が「海」という語の語源であった可能性を捨てさることはできない」とも書いています。これは言語を構造や記号としてのみ捉えようとすることに対する警鐘の言葉なのですが、僕には自分が初めて舟見峠の上から熊野灘を見たときに受けた感慨と吉本氏の言葉がどうしても重なってくるのです。


 この時、僕は熊野の山岳信仰というものはただ単に死者の世界である山をめぐるものではなく、山の果てに広がる海を目指すものでもあると直感しました。こうした彼海世界に対する思いというのは、舟見峠以外の場所、例えば太地の梶取崎のようなところに立ってみても強く沸き起こってくるのですが、山が海岸線のそばまで迫っているような土地においては、どうしても彼海世界を思わざるをえないのでしょう。そのまますっと海に出て行けそうなほど海と山が連続している、それが熊野なのだと思います。正に熊野は海と山が聖婚した地なのです。

        
 こうした彼海世界に対する憧れに宗教的な理由づけをして実際に海に乗り出していったのが、いわゆる補陀落渡海です。これは熊野の山中での激しい行を終えた上人が、最後の行として方舟の中に閉じこめられたまま熊野灘に流されるというもので、死を覚悟した捨身行の一種なのですが、僕は補陀落渡海とはもともと熊野にあった海と彼海世界に対するアニミズム的な信仰が、仏教に由来する西方浄土、観音浄土に対する信仰と融合することによって生まれてきたものではないかと思っています。


 先ほど和田先生と雑談していた時に那智山青岸渡寺の話が出ました。この青岸渡寺の「青岸」というのは観音浄土の岸辺のことですが、青岸渡寺は自らの縁起を「仁徳天皇の時代に南方より舟に乗ってやって来た裸形上人が開山した寺」であるとしています。この縁起も熊野人の彼海世界に対する憧れの反映のようにも思えますが、僕は何となくこれは実話なのではないかと思っています。古代には海の道を利用した、比較的広い範囲にわたる人の動きや情報の流れがあり、那智はそうした海の道に直結していたような気がするのです。


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補陀落山寺】


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