拓海広志『イルカ☆Missing Link』

 床屋の親父の話は、夏の休みが終わってから忙しい日々の中でイルカのことを忘れかけていた僕にとって、少々身につまされるものだった。


 それで彼の助言に従って高架下商店街の骨董品店を訪ねた僕だったが、教えられた場所には薄汚いポルノショップが一軒あるだけだった。


「骨董品屋? ああ、そう言えば、この店の前にあったのはそうだったっけな」と、左眼に黒い眼帯をあてたポルノショップの男は、理由もなくニタニタと笑いながら言った。


「その店はいつなくなったんですか?」


「もう十年も昔の話さ。奇妙なじいさんがやってた店でなぁ。そのじいさん、何を思ったのか、急に店を閉めて南米へ行っちまったのさ」


「南米ですか?」


「ああ、アマゾンらしいぜ」


「アマゾン? マナウスあたりですか?」


「いや、そんな都会じゃなくて、もっと奥だ。何でもあそこの奥地じゃ、時間と空間が混沌とした状態で混じり合ってるらしいんだな。じいさん、そこに行けば失った時間を取り戻せるかも知れんとか何とか、わけのわからんことを言って出かけたぜ」


失われた時を求めて・・・?」


「まあ、ちょっといかれたじいさんだったからな。俺もまともには聞かなかったけどよ。だいたい、南半球に行けば時間は逆に流れるだなんて信じられるか?」


「何ですか、それは?」


「ほら、南半球じゃ水や空気の渦が北半球とは逆向きに回るだろ」


「はい」


「だけど、じいさんに言わせると、それだけじゃないらしい。誰かにぶん殴られたときに頭の周りを星が回るよな?」


「はい」


「その星も南半球じゃ逆に回るそうだぜ」


「・・・・・」


「ハハハハハ。それが時間が逆に流れる証拠なんだってよ。どうだ、さっぱりわかんないだろう?」


 男は眼帯の下がむず痒いのか、そこに指を突っ込んで掻き毟りながら話した。


「ところで、あんたは何で今ごろそんな骨董品屋を探してるんだい?」


 僕は手短かにこれまでのいきさつを男に説明した。


「ふーん、イルカねぇ・・・。あぁ、そう言えばじいさんからこんな話を聞いたことがあるぜ」


 男がじいさんから聞いたという話はこうだ。アマゾン河というのは長さは本流だけで6千4百キロ、全長では4万キロメートルを越し、河口の幅は300キロ以上もあるらしい。それに、河口にあるマラジョーという中の島は九州よりも大きいという。


 そんなわけで川の流れは大西洋に出てから160キロほども続いており、かつて沖で沈没した船があったが、ボートで漂流した船員たちは洋上なのにアマゾンから流れてくる真水を飲むことが出来たおかげで助かったという話もあるそうだ。


 そんな具合だから、アマゾン河と大西洋の境目は定かではなく、本来は海に住む筈の動物たちの中にもいつの間にかアマゾンに迷い込み、次第に体が淡水での生活に適応してしまい、そのうちに海に戻れなくなったものがいるという。そんな動物たちの一つが淡水イルカだ。


 失われた時の集積地アマゾン。そして、そこに囚われて海に戻れなくなったイルカたち。これは何かのヒントなのだろうか?


「ところで、その老人の正確な居場所はわからないんですか?」


「わかる筈ないじゃないか。俺は十年前に店舗を譲り受けたときに、じいさんがアマゾンへ行くとか言ってたのを聞くともなしに耳にしただけの話よ」


「そうですか・・・」


「まあ、どうしてもじいさんに会いたきゃ、あんたもアマゾンへ行って探し回るんだな」


 男はそう言うとまたニタニタ笑ったが、僕はすでにそのつもりになっていた。最初は母イルカの命令で始めたイルカ探しだったが、それが僕自身にとっても重要なものであることに僕は薄々気づき始めていたのだ。


 ハッキリとその理由を説明することはできないが、イルカが消え去ったことの責任の一端は僕にありそうに思えたし、彼女を取り戻さないと何か取り返しのつかないことが起こりそうな気がし始めていたのだ。


「もしあんたかがアマゾンへ行くというのなら、この本を買うといいよ」


 男はそう言うと、立ち読み客の手垢で汚れた一冊のヌード写真集を僕に手渡した。モデルは全て豊満な肉体をした南米の女たちで、揃って煽情的な視線でこちらを見据えていた。


 そして、写真集の頁を繰っていくと、どういうわけか真ん中あたりに見開きの左右二頁を使ったアマゾン流域の地図がはさまっている。


「それは世界で一番正確なアマゾンの地図だよ」


「・・・?」


 半信半疑の僕だったが、男はまた人を煙にまくようなことを言った。


「アマゾンへ行ったら、この地図にはない街を探すんだぜ」


「地図にない街?」


「そうさ、そこがじいさんの居場所だ。その街を見つけ出すには、あんたが身に付けてきた薄っぺらな経験や知識を集めて積分したところで無駄なことだろうな」


「・・・」


「そういうことはせずに、自分をどんどん微分していくんだよ。そうすりゃ、あんたにも多少は世の中の真実が見えてくるさ。ハハハハハ・・・」


 僕は次第に高まる男の笑い声を聞くうちに眩暈をおぼえ、その場にしゃがみこんでしまった。


 やがて眩暈から醒めてあたりを見回すと、ポルノショップの中に男の姿は見当たらず、アルバイトらしき店員が不審そうにこちらを眺めているだけだった。


 だが、僕の手の中には確かにアマゾンの地図の載ったヌード写真集が残されていた。それで、僕はアルバイト店員にその写真集の代金を払い、ポルノショップを出た。


 高架下に吹き込んでくる風は冷たく、冬はもうすぐそこだった。そして、どうやらこの冬は長い休みを取ることになりそうだった・・・。


(1987年作)


※参考記事
拓海広志「イルカ☆My Love」


(無断での転載・引用はご遠慮ください)


Link to AMAZON『川に生きるイルカたち』

川に生きるイルカたち

川に生きるイルカたち

Link to AMAZON『So HAPPY』
So HAPPY [DVD]

So HAPPY [DVD]

Link to AMAZON『ファイター−評伝アントニオ猪木』
ファイター―評伝アントニオ猪木 (1982年)

ファイター―評伝アントニオ猪木 (1982年)