拓海広志『イルカ☆Lost World』
「なるほど。『失われたイルカを求めて』ってわけだ」と、床屋の親父は僕の髪を梳きながら言った。若い頃はフランス文学にかなり傾倒していたというが、今でも言葉の端々にディレッタントなところが顔を出す。
「俺がまだ若い頃、こんなことがあったよ」と、親父は続けた。
「その頃の俺には付き合っていた女の子がいてね。よく街のあちこちでデートをしたものさ。ところがね、二人で待ち合わせをするだろう。そうすると、いつも俺の方が五分早く、そして彼女の方が五分遅れて待ち合わせ場所にやって来るんだ。俺は思ってたね、きっと二人が暮らしてる時間は並行してズレて流れてるんだろうって」
「ところが俺は若かったせいか、そのことが不安でね。どうしてもそのズレをなくしたくて仕方がなかったんだ。それで俺は彼女に待ち合わせの時間を守るようにって、いつもうるさく言ったよ。それくらいのこと、どうってことないのにね。たぶん、彼女にはそう言われることはとても苦痛だったろうと思うよ」
親父は僕の椅子を倒し、顔剃り用のシャボンを僕の顔に塗りたくりながら続けた。
「そんなある日、俺たちはデートの途中に高架下の商店街を歩いていて妙な骨董品店を見つけたんだ」
高架下というのは僕の住む港町にある商店街のことで、華僑の店が軒を連ねていた。今はずいぶんきれいになったが、少し前までは闇市めいた雰囲気を持っていて、いつもアジアや中南米、ロシアあたりの船員たちがたむろしているところだった。
「その店は入口は狭いんだが、結構奥行きがあってね。中に入るとあたり一面に玉石混交といった感じの骨董品たちが何の整理もされずに積上げられていて、さらにその上には何十年もかからなきゃそうはならないと思えるほどたくさんの埃が積もってたんだよ」
「様々な時代の様々な国の品物が何の分類も区別もされずに、ただ積み重ねられて埃に埋まっている。これはある種、神秘的というか荘厳な風景でもあったよ。まるで長い時間軸と空間軸がその店の中で交わり、そのまま全てが静止してしまったかのようでね」
「そんなふうに考えると俺は何だか凄く心が重苦しくなってきて、それで慌てて後ろに立っていた彼女の方を振り返ったんだ。でも・・・、それから何が起こったと思う。
喉元に剃刀をあてられてる僕はうまく応えられないので、口を開かずに小さく「さあ?」とだけ言った。
「彼女は消えてしまったんだよ、そこから・・・。もちろん、俺は慌てて店の中を捜し回ったよ。隅から隅までね。ところが、どうしても見つからないんだ。彼女はずっと俺の後について歩いていたはずだし、もし店から出たのだとしたら扉を開ける音で気づいたはずなんだ」
「俺は焦ったよ。そして、もう一度店の中を見渡すとどうだろう。骨董品に混じって埃に埋もれていたから気づかなかったけど、一人の老人が膝の上に中国語の本を置き、これまた骨董品の椅子に腰掛けたまま眠っていたんだ。まるで何世紀も前からずっとそこに座り続けているみたいにね」
顔剃りを終えた親父は僕の顔を熱いタオルで拭きながら言った。いつものことだが、その後は顔が妙に冷んやりとする。
「わかるだろう? そう、俺はそれを見たときに悟ったんだ。彼女の暮らしていた時間は収束し、彼女はその店の中に吸い込まれてしまったんだとね。幸い俺の時間はそこでは収束しなかったけど、それはたぶん彼女がいてくれたからだろうと思う」
「それ以来、彼女は行方不明ということになってるけど、それは俺のせいなんだよ。俺が彼女の暮らしていた時間にケチをつけすぎたためにこうなったんだ。だから、彼女は今でもあの店で骨董品や老人と一緒に埃に埋まって眠っているはずだよ」
親父は軽くため息をつきながら、僕の椅子を起こした。機械油が切れているのか、椅子は少し軋むような音を立てた。
「どうだい、多少参考になったかな? いや、別に聞き流してくれたっていいよ。ただ、俺が言いたかったのは、俺たちは皆同じ時間と空間を生きてるように見えても、実はそうじゃないってことなんだ。俺は彼女を失ってからそのことに気づいた」
「ありがとう。とても参考になったよ」と、僕は応えた。
「そうかい、それは良かった。じゃあ、洗髪しようか」
僕は床屋の親父の話を鵜呑みにしたわけではなかったが、散髪を終えたら高架下商店街の骨董品店に足を運んでみようと思っていた。そこには消えたイルカの行方を知るためのヒントがあるかも知れないと感じたのだ。
(1987年作)
※参考記事
拓海広志「イルカ☆My Love」
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
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