拓海広志「南の島の鉄拳人生 : ジョン・ラハシアさん」

 「ラハシアはインドネシア語で秘密。ヒロシは日本語で海。ならば、二人で海の秘密を求めてみないか?」と、老人はいつもの毅然とした態度を崩さぬままではあったけれど、少し悪戯っぽく笑いながら、そんなふうに言った。


 老人の名はジョン・ラハシア。僕が訪ねてきたインドネシア各地の魚市場の中でも、扱われる魚種が最も多く、また特に活気に満ちているのがマナドの中央市場なのだが、その裏手を流れる川の向こう岸に拡がるシンドゥラン地区に彼の住む家がある。


 ラハシアさんは独立戦争時にスカルノを支えた将校の一人だったのだが、今でもその頃の気概と矜持は忘れておらず、背筋をピンと張った威厳のある立居振舞が堂に入っている。僕との会話には流暢な英語を使うが、奥さんとの会話がオランダ語になるのは、オランダ植民地時代に高等教育を受けたインドネシア人の間ではしばしば見られることだ。


 ラハシアさんが軍人を辞めたのは、自らの学問に専念するためだったそうだが、そのきっかけとなったのはトール・ハイエルダールが行った「コンチキ号」による漂流実験だったという。


 この実験結果に基づき、ハイエルダール氏はポリネシア人が南米から海を渡って南太平洋へ拡散したという自説を展開したわけだが、それに対してポリネシア人島嶼東南アジアからメラネシアを経て拡散したに違いないと考えていたラハシアさんは何とかそれを立証しようと思い立ったのである。そして、彼は文化人類学言語学を中心に研究を続け、やがて「タガロロジー」なる理論を唱えるに至った。


 その後の文化人類学の世界では、ハイエルダール氏の唱えた説は誤りであり、むしろラハシアさんの抱いた直観の方が正しかったことが立証されてきているのだが、ラハシアさんのタガロロジー理論はかつてスカルノ大統領が提唱していた「大マレー主義」との間で微妙に響き合っていたのではないかと僕は考えている。


 大マレー主義とはマレー人によるマレー文明圏を仮定し、そこに属する地域の民族自決を促す考え方で、それは当時マレー半島を支配していた英国の大反発を受けたのだが、タガロロジー理論の中にもマレー文明圏という考え方はあり、当時のラハシアさんはスカルノ大統領が250もの民族からなるインドネシアを一つの国家として纏め上げ、またマレーシアとの共闘を図っていく上での理論構築を助けていたのかも知れない。


 だが、ラハシアさんの考えるマレー文明圏(彼はそれを「インド=太平洋の大ヌサンタラ」と呼んでいる)は非常に広く、そこにはインド洋のマダガスカルからマレー半島インドネシア、フィリピン、そして太平洋の島々までも全て含まれる。そして、彼はその海域を「タガロア」と呼ぶことを提唱してきた。


 タガロア(タンガロア)とは島嶼東南アジアやポリネシアにおいて「海神」あるいは「広大な海」を意味する語であり、それは海洋文明としてのマレー文明を象徴するものだというのがラハシアさんの考えだ。そして、地中海の海神オーケアノスに由来する「オセアニア」という呼称を廃し、彼らの海神タガロア復権させようとラハシアさんは言うのである。


 ラハシアさんがタガロロジー理論について話し始めると、正にエンドレス状態となることを覚悟せねばならない。博覧強記の彼は古今東西の様々な書物を紐解きながら自説の正しさを訴えるのだが、僕はラハシアさんの思想の背後にインドネシアの青春を見る。


 オランダを打ち破って独立したばかりのインドネシアが、スカルノというカリスマの下に諸民族間の対立を抑え、国家としてのアイディンティティを確立するために躍起になっていたであろう日々。スカルノの「大マレー主義」もラハシアさんの「タガロロジー理論」もその時代の産物なのだ。


 しかし、そのことを抜きにして考えてみても、僕たちが「オセアニア」と呼んでいる世界を「タガロア」と呼び直してみると全く異なる風景が見えてくるのも確かで、僕はそういう視点を大切にしたいと考えている。


 マナドの沖合にはマナド・トゥアの名で知られる火山島とダイバーたちの垂涎の的となっているブナケン島が浮かんでいるが、ブナケン島のすぐそばには隆起珊瑚礁からなるシラデン島があり、そこがラハシアさんの故郷である。


 シラデンはミナハサ半島とミンダナオ島の間に浮かぶサンギール・タラウド諸島を本拠とするサンギール人たちの島なのだが、19世紀末にインドネシアを支配していたオランダは彼らが傀儡としていたマナドのラジャにこの島を支配させようとした。


 この動きに抵抗するため、サンギール本島から6人のサンギール王家の者がマナドへ押しかけ、ラジャから島を買い取ることで話がついたという。オランダは彼らがサンギール本島ではなく、シラデン島に住み続けることを条件に島の購入を許可したそうだが、この6人の王族の中にラハシアさんの祖父がいた。


 シラデンで生まれ、マナドで育ったラハシアさんは父親からシラデンの土地を受け継いだが、他の王族の子孫たち5人が生活のために自分の土地を手放すことを決めるたびにそれを買い取ってきたため、現在では約40ヘクタールある島の土地のうち30ヘクタールが彼の私有地となっている。


 だが、ラハシアさんは島に住む260人の島民たちの静かな生活を守り、また島固有のエコロジカル・バランスを保つために役人や観光業者、デベロッパーなどとの間で戦いを続けてきた。だから、彼と僕の共通の友人であるニュージーランド人の海洋探検家ボブ・ホブマンはラハシアさんの生き様を「南の島の鉄拳人生」と呼んで笑うのである。


 僕はラハシアさんと共にシラデン島へ渡り、浜に建つ彼の生家で島の質素な料理やアム(パンの実を油で揚げてから椰子砂糖でからめたお菓子)を食べながら話し込んだことが何度かある。島にはカトリック教会や小学校も建てられており、森にはココ椰子、マンゴー、パパイヤ、バナナ、キャッサバなどが豊かに実っている。


 彼が「島にカチャン・タナ(落花生)の畑も作ろうかな?」と言って笑ったのは、かつてマナドに侵攻してきた日本軍の青年将校が「我々は諸君を解放するためにやってきた」と立派な演説をした直後に、落花生を食べながら演説を聞いていた若き日のラハシア青年を見咎めて「貴様は猿か?!」と罵ったことを思い出したからだという。


 実はラハシアさんはシラデン島全体を一つのエコ・ミュージアムにするという構想を抱いている。島に「タガロロジー研究センター」なるものを作り、それを軸にコテージ風のホテルと自然観察、文化交流、そしてダイビングの基地を設ける。島民たちの昔ながらの生活を守りながらも、島の自然及びそれと調和して生きる島民たちの暮らしのあり方全体を一つの生態系として捉え、それを学べるような空間を作りたいというのが彼の考えなのだ。残念なことに、役人や観光業者、デベロッパーたちは彼のコンセプトを正しく理解することができないため、ラハシアさんはこの構想を一人で進めざるをえないのだが、いつの日にか彼の夢が実現することを僕は願っている。


 シラデンは静かで美しい島だ。電気もなければ自動車もなく、優しい波音と海風が木々を揺らす音の他には、無邪気に遊ぶ子供たちの歓声が聞こえるのみである。僕は浜に置いてあったロンデ(小型のダブルアウトリガーカヌー)を借りて海に漕ぎ出すことにした。


 眼前に浮かぶブナケン島の向こうに聳えるマナド・トゥアが美しい。ラハシアさんによるとサンギールの漁民たちは今でもこの程度の小さなカヌーでミクロネシアパラオ諸島あたりまで出漁するというから恐れ入る。やはりここは海神タガロアの末裔たちの海なのである。そんな海人たちの乗り出す遥かな海を思いながら、僕は独りでカヌーを漕ぎ続けた。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



【ジョン・ラハシアさん。マナドのご自宅にて】


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