国崎の浜から急傾斜の細い坂道を少し登ったところに、古くから近在の海女たちの信仰を集めてきた海士潜女神社がある。海士とは男アマを、また潜女(かずきめ)とは海女(女アマ)を指す言葉だが、最近は伊勢志摩地方でも「潜る」ことを「潜く(かずく)」とは言わなくなったという。樹木に覆われるようにしてたたずむ小さな社には、これみよがしなところは微塵もなく、素っ気ないほど淡々とした風情だ。ただ、浜から上がってくる潮気だけが濃厚に漂っている。
前夜は元海女であったという宿の女将にわがままを言い、彼女の友人である二人の現役海女から話を聞く機会を得た。全国の浜を渡り歩いてきたという若き日の修行のことから、朝早くから夜遅くまで働きづめだったという鳥羽・志摩の女としての半生を振り返ってみても、「やっぱり海に潜っているときが一番楽しいよ」という潜水漁のことなど、まるで掛け合い漫才のようにはしゃぎながら語る二人を見つめていると、浜の暮らしや漁の息遣いまで伝わってくるような気がした。
「誰からも偉そうに命令されるわけやないし、好きな海に潜って貝やら採ったら、採った分だけお金になる良い仕事なのに、何で今の若いもんは海女をやらんのかいなぁ?」。そう言いながら笑う二人には思わせぶりなところはこれっぽっちもなく、生きることに過剰なほどの意味を見出そうとして彷徨している人には持つことのできぬ潔さと逞しさすら感じられた。
そんな二人の話に心地よく酔った翌朝、私は鎧崎と呼ばれる小さな岬の上から日の出を拝んだあと、海士潜女神社へ参った。1月半ばだというのに、妙に暖かい朝である。境内には既に一人の老海女がいて、社殿に向かって参拝したあと、社殿のまわりに転がっている幾つかの岩の上に米粒を置いては一つ一つ丁寧に拝んでいた。日本の海女には60歳や70歳になっても現役を続け、漁期中は毎日潜るという人が少なくないが、彼女もその一人のようで、潜り漁の安全を祈願するために神社には毎朝参るのだという。「膝が悪いから」と言いながらゆっくりと歩くが、それでも潜りの方は現役なのである。
私が社殿のまわりの岩には何が依っているのかと訪ねたところ、彼女は遥か彼方にある山を指差しながら、そこにいる神と岩の結びつきについて教えてくれた。もっとも、私には彼女の指差す方には社殿を覆う樹木しか見えなかったのだが、彼女の目には山々や神々の姿が映っていたのかも知れない。人の想像力がそれを表現する言葉を得ることによって、空虚な空間のように見えていた神社は突如として豊かなネットワークの中に組み込まれていく。それは日本の神道を考える上で、とても重要なことだと私は考えている。
国崎と言えば、伊勢神宮へのアワビの御贄所(みにえところ)としてよく知られているが、この伝統は少なくとも平安時代のはじめから今日に至るまで続いてきたものだ。『倭姫命世記』によると、倭姫命が伊勢の五十鈴川に皇太神宮を創建したあと、天照大御神に供える御贄を貢進すべき場所を求めて嶋(志摩)を巡った際に、国崎をアワビの御贄所に定めたということになっている。その時、倭姫命にアワビを献上した海女の名をオベンといい、海士潜女神社はそもそも彼女のことを祀ったものだ。
伊勢神宮はこんなふうにして神の衣食住にまつわる御贄を貢進すべき場所を各地に指定し、それによって独自のネットワークを拡げるとともに、人々の暮らしや生業と神宮とのつながりを深め、またそれが結果的に御贄所として指定された地の産業振興にもなるという関係を築いてきた。この関係の強さは、その多くが今日でも続いていることによって証明されるが、国崎の海女の高齢化を見るにつけ、彼女たちが地先の天然アワビを潜り漁で採って、天照大御神に貢進することをいつまで続けられるのだろうかという思いもふと胸をよぎる。
老海女と別れて、海士潜女神社を出たところで、昨夜話を聞かせてくれた海女のうちの一人と出会った。彼女は手押し車にいっぱいの干し芋を載せて道を行くところだった。それは遠目には干しナマコのように見えることから、志摩では干し芋のことを「キンコ」と呼ぶのだが、それがナマコ食文化を前提とした名称であることが興味深い。キンコはサツマイモの皮を丁寧に剥いでから茹で上げ、その後に干すので、なかなか手間がかかるのだが、食べてみると芋の旨味が凝縮されていて実に美味い。
彼女は「キンコは腹持ちがいいし、食べ続けていても飽きがこないからいいね。浜仕事や畑仕事の合間につまんだり、子供のおやつにするのもいいよ」と言うと、昨夜と同じように気持ちのよい笑顔を浮かべた。そして、きびきびと手押し車を押しながら急な坂道の続く路地を進んで行ったのである。春を思わせる陽光に照らされてキラキラと輝く太平洋を眺めながら、何だか素敵な1日になりそうな気がしてきたのは、きっと彼女のおかげだろう。
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