拓海広志「兵庫散歩」
それが港町の特徴なのか、神戸という町には外部から様々な人や文化を受け入れ、それらがモザイクのように入り混じった状態を良しとする気風があった。だから一昔前には「駆け落ちするなら神戸へ行け」と言われたように、開放的な雰囲気を持つ町になったのだろう。
神戸っ子気質としてよく言われるのが、「おっちょこちょいで、好人物。時代を先取りする感覚は鋭いが、飽きっぽい。物にはこだわらず、他人のことにはあまり干渉しない」ということである。人口140万人を越す大都市になった神戸に住む人が皆そうだとは言えぬにせよ、なかなかいいところをついてるなぁと、典型的な神戸っ子である僕は少し頭をかかざるをえない。
ところで、神戸の港と街は西の兵庫(現在のJR兵庫駅〜神戸駅界隈)から東の神戸(現在のJR元町駅〜三宮駅界隈)へと向けて発展を遂げてきた。そもそもの港の始まりは現在の兵庫港界隈、すなわち和田岬東方に位置する大輪田の泊とされており、この泊に注ぎ込む川が湊川(ミナト川。古名は弥奈刀川)と称されるようになったのはそれ故である。
世界中どこへ行ってもそうだが、港というものはまず天然の静かな入江か川沿いに作られるのが普通だ。ところが喫水の深い大きな船が接岸するためには水深の深い外海に向かって港を拡げる必要があり、その要請に応えるために突堤が作られたり、埋立地が造成されたりするのである。
大輪田の泊に初めて突堤(経島)を築いたのは、対宋貿易の拡大を目指して神戸福原に都を移そうとした平清盛であり、これによって神戸は国際貿易港としての第一歩を踏み出したことになる。僕が生まれ育った明石海峡を望む西神戸の町・舞子は、浜の松林の美しさに感激した清盛が舞妓を集め、そこで頻繁に宴席を設けたことからその名で呼ばれるようになったと伝えられているが、稀有な視野の広さを持ち、行動力もあった清盛が神戸に残したものは、港というハードと共に、外に目を向ける進取の意気だったのかも知れない。
清盛時代の造営によって、大輪田の泊は経ヶ島、あるいは兵庫島と呼ばれるようになり、その後は足利義満が力を入れた対明貿易の窓口としても脚光を浴びるようになったが、兵庫の港と街が本格的な発展を遂げたのは寛永期に北国の船が日本海から下関をまわり、瀬戸内海を経て兵庫へ入港する航路が開かれてからである。これにより、1年間に150〜160隻程度の廻船が兵庫に入港するようになり、廻漕業で巨利を得た高田屋嘉兵衛に代表される豪商の店や邸宅、倉庫が軒を連ねるようになった。
子供の頃から歴史が好きだった僕は、小学校の高学年になると神戸の各地を、そして中学生になると近畿の各地を巡りながら様々な史跡を訪ねたものだが、兵庫から神戸にかけての古い港の跡を偲び、年季の入った貿易商の店を眺めながらの散策は特に好きだった。それで先日のことだが、久しぶりに昔よく通った道を歩いてみようと突如思い立ち、僕は兵庫へ向かったのである。
JRの兵庫駅から和田岬駅に向けては単線の和田岬線が走っている。和田岬にある三菱重工造船所や重工病院に通う人たちのために作られた線なので、朝夕の通勤時以外の便はない。最近になって電化されるまではディーゼル車が通っており、ローカル線好きの僕にとっては心和む路線の一つであった。
電車が住宅地の間を縫うようにして和田岬駅に着くと、そこは正に重工村である。高い壁に囲まれた巨大な工場、ドックと、その周囲に軒を並べる小規模の下請工場群。造船業のアジアシフトが進行する中で、三菱重工神戸造船所はハイテク船や原子力潜水艦、自衛艦の建造や補修を主たる業務としてきたので、工場周辺の一般道路の電柱にも防犯カメラが設置されており、何となく物々しさを感じる。
僕は同造船所の正門を訪ね、門衛の方に敷地内にある和田岬砲台を見学させてほしいと頼んでみた。門衛さんは車を1台手配してくださり、僕はそれに乗せられて広い敷地の端にある砲台跡まで案内していただいた。車を運転してくださった工員さんの話では、時折僕のように砲台の見学に訪れる人がいるため、同社では工員さんが交代でその案内をすることになっているのだという。
和田岬は兵庫港の西の入口にあたり、その警備上重要な場所である。江戸末期の外国艦船来航に伴って浮上した摂海防備論を受けて、幕府は西宮、今津、兵庫の川崎(湊川)と和田岬、舞子、淡路の岩屋、泉州と大阪湾沿岸に砲台を築いたのだが、特に西宮、今津、川崎、和田岬のものは勝海舟の設計による同型のものであった。川崎、今津の砲台は既に取り壊され、西宮の砲台も内部が消失して石郭のみとなっているため、和田岬の砲台は唯一当時の面影を残すものとして高い資料的価値を持っている。
重工敷地内の片隅にひっそりと立つ砲台は、それでも直径15メートル、高さ11メートル半もあり、建造当時はなかなかの威容であったことが想像できる。外郭部は塩飽諸島から切り出された御影石で固められているが、木造2階建ての内部は欅造りとなっており、そこには弾薬庫や井戸が作られていた。ちなみに工事を請け負ったのは講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の父・次郎作だったという。2階と屋上階にはそれぞれ11門、16門ずつの大砲が装備されることになっており、砲台の周囲には東西60メートル、南北70メートルにわたって星型の土塁が築かれていたそうだが、結局情勢の激変により大砲は装備されず、土塁も潰されてしまったのである。
ところで、冒頭に書いた神戸っ子気質のルーツについてだが、明治時代になってから外国人居留地に指定されたため神戸に数多くの外国人が住むようになり、彼らの活動が街の発展に大きく寄与すると共に、神戸っ子のライフスタイルに影響を与えたという点がしばしば指摘される。だが、それに加えて、神戸に海軍操練所を築いた勝海舟とその周辺の若き志士たちが持っていた自由闊達な気風が残ったということを言う人もいる。
勝が摂海警備の一環として、生田川河口部に約1万7千坪の土地を押さえ、そこに海軍操練所を築いたのは文久4年(1864年)のことである。勝は、塾頭の坂本竜馬をはじめ、後に外務大臣となる陸奥宗光や、海軍大将となる伊藤祐亨など、尊王・佐幕といった思想的な相違にかかわらず、国を憂い、海国日本の発展に向けて青雲の志を抱く若者ならば誰でも受け入れた。こうした勝の開明的な姿勢は幕府首脳から疑惑の眼差しで見られるようになり、やがて操練所は閉鎖されるのだが、操練所の建設は神戸の港の中心を湊川河口部の兵庫から生田川河口部の神戸に移すきっかけとなった。
海軍操練所の建設にあたり兵庫の豪商たちは必ずしも協力的ではなかったと言われる。その理由は定かではないが、既得権益で潤っていた大店の主たちは、日本中から素性の怪しい志士が集まって来る兵学校や、それを中心に形成されていく軍港が招くものに対して警戒感を抱いていたのかも知れない。
やがて、幕府と諸外国の間で兵庫の開港問題が持ち上がるのだが、地元の抵抗の強かった兵庫は開港せず、神戸が開港となった。これにより、神戸の港と街の中心地は東に移ることになったわけだが、かつて前人未踏のエトロフ渡航を成し遂げ、日露交流に尽力した兵庫の豪商・高田屋嘉兵衛が生きていたら何と言ったであろうか。
そんなことを考えながら和田岬砲台を後にし、生洲跡、清盛塚、琵琶塚、兵庫城址、そして兵庫大仏で知られる能福寺と、兵庫運河沿いの道を散歩してみた。何だか僕の子供の頃からずっと時が止まり続けているような、そんな気にさせる兵庫の港町だが、かつて運河に浮かんでいた材木はもはや見られず、バナナをはじめとする生鮮果物の水揚げで賑わってきた港も静かである。勿論、僕が子供の頃にはまだ見られた艀舟の上で生活する人々は、今はもういない。
現在、神戸の港の中心は神戸の旧港から三宮沖の埋立島・ポートアイランドと、御影沖の埋立島・六甲アイランドへと移っており、コンテナ船の大半はそこに入港する。港がモノだけではなく、人や文化を運んだ時代は既に終わり、外見からでは何が入ってるのかわからない無個性なコンテナが整然と並ぶコンテナヤードの荷役風景は単調だ。そして、貨物の大半はコンテナのまま荷主のもとに運ばれ、港は単なるコンテナの通過点になってしまった。
港を軸に発展を遂げ、行き交う人々との豊かな交流によって独特の町の空気を作ってきた神戸だが、震災で街と港がズタズタになってしまった後に建てられたビルの多くは凡そ神戸には似つかわしくない品の悪いものが多く、三宮駅界隈に雨後の筍のように立ち並ぶようになったカラオケ店や風俗店は、神戸が築いてきた都市の美学をあざ笑うかのようだ。
かつて神戸は東京や大阪の大資本の出店が幅を利かせにくい町とされ、小さいながらも個性的な会社や店がたくさんあった。大阪人の司馬遼太郎氏は「日本の中で欧米型の市民社会に近いものが存在するのは神戸だけだ」と評していたが、それ故にか神戸で生まれた市民運動やクラブも少なくはない。だが、最近の神戸はいささか東京・大阪の大資本にも圧され気味だ。
そんなことを思いながら神戸駅から高架下商店街を抜けて元町へ至り、そこから三宮までは下山手、中山手界隈をうろうろしてみた。カトリック教会や回教寺院が軒を連ねる散歩道を歩きながら、多様なものを前向きに受け入れながら、異なるものと共生していくことを旨とする神戸スタイルがある限り、この街がかつてのような活気を取り戻すことは決して不可能ではないだろうと思った。21世紀の神戸はどんな町になっていくのだろうか?
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