拓海広志「南の島の呪術師のはなし」

 6年ほど前に僕はシンガポールのラジオ番組に4話連続で出演させていただいたことがあるのですが、そのときに収録された四方山話の内容をここに再現・紹介させていただきます。


   *   *   *   *   *   *


志田和子:皆さん、おはようございます。今朝もスタジオには拓海広志さんにお越しいただいています。今日は南の島の風習や奇習について、朝からではありますが(笑)、うかがいたいと思います。


拓海広志:よろしくお願いします(笑)。前回はミクロネシアのヤップ島でカヌーを作り、航海をしたという話をさせていただきましたが、実はカヌーを作るために原木を切り出す時にも儀式をやるんですよ。島の呪術師が原木に向かって法螺貝を吹き鳴らし、木に宿る精霊に向かって祈りを捧げるといった儀式なんですが。


志田:そうなんですか。


拓海:ええ。ヤップでは木の本来の姿はカヌーであり、木の中にこもった精霊は早く本来の姿に戻してほしいと願っているのだと言われます。


志田:それは面白いですね!


拓海:ですから、木を切り倒す前には、その木が本来の姿に戻れるほど十分に成長したかどうかを確認した上で、今から木を切りますよという合図を精霊に送る必要があるわけですね。その際に法螺の音で邪悪なものを追い払うのですが、南の島の風習や儀式を見ていると、あらゆるモノには魂が宿るとするアニミズム的な考えに基づくケースが多いように思います。


志田:そう言えばそうですね。


拓海:バリ島のあるインドネシアなんかもそういう風習が多く見られるところですが、これは立派なオフィスビルが林立するジャカルタなんかでも同じです。昼間は背広に身を固めて仕事をしているようなビジネスマンでも、一皮剥くと非常にアニミズム的な感受性を持つ人は多いですね。


志田:そうなんですか?


拓海:ええ。僕がジャカルタに住んでいた頃、仲の良かった友人の中にドゥクンをしている人がいました。ドゥクンというのは呪術師や呪医のことなのですが・・・。


志田:人を呪うんですか?!


拓海:いえ、中には人に呪いをかける者もいるのですが、その大半はまじないを使って人の病気や怪我を治したり、悩みを癒したりしています。日本で言うと藪医者っていうイメージですね。


志田:藪医者?


拓海:ええ(笑)。藪医者の語源をご存知ですか?


志田:いいえ。知りません。


拓海:藪医者って、かつては「野巫医者」と書いたそうなんです。つまり、「野に在りて、まじないの力で病を治す人」というのが本来の藪医者なんですね。ですから、多分日本にも昔はドゥクンのような人はいたと思うんですよ。


志田:なるほど。


拓海:ドゥクンの多くは、昼間は普通に仕事をして働いています。ところが夜になって家に戻り、マンディ(水浴)を終えるとドゥクンに変身するんですね。そして、ドゥクンの周りには近所のおじさんやおばさんたちがぞろぞろと集まってくるわけです。


拓海:彼らは順番待ちをしながら、一人ずつドゥクンの前に行って相談事をします。足がリューマチで痛いとか、仕事がうまくいかないとか、家族の誰かに何か問題があるとか、あるいは恋愛がうまくいかないとか、それぞれの悩みを打ち明けながら。ドゥクンはそれらの話をじっと聞いているのですが、やがてまじないを唱え始めたかと思うと、突如トランス状態に入ってしまうのです。


志田:ドゥクンの方がですね?


拓海:そうです。ちょうど恐山のいたこさんみたいな感じですよ。それからドゥクンは精霊の声を借りたり、相談者の亡くなった家族の霊の声を借りたりして、相談者に対して様々なアドバイスを与えるんですね。それを聞いているうちに相談者の方もテンションが上がってきて、普段は胸に秘めているようなことを全て吐き出し、ドゥクンにぶつけるわけですが、霊の憑いたドゥクンはそれに応対します。


拓海:やがて霊がドゥクンから離れると、ドゥクンは素に戻って相談者と少し話をし、それから効くのか効かないのかわからないジャムゥ(インドネシアの伝統的な民間薬)のようなものを相談者に手渡してカウンセリングは終了するわけです。でも、ドゥクンの家をあとにする相談者の多くは晴れ晴れとした、ホッとした表情をしていますよ。


志田:凄いですね。


拓海:ジャカルタの路地の辻々には結構こういうドゥクンが潜んでいるんですよ。


志田:そんなにたくさんいるということは、それだけニーズがあるってことなんですか?


拓海:そんな風にも言えますね。最近、アメリカあたりではほとんどの人がカウンセリングに通っていると言いますが、そういう近代的な心理学や社会学を学んだカウンセラーとは異なり、アジアには昔ながらの藪医者的カウンセラーがいるんですね。


志田:それってもしかすると日本にも必要なんじゃないですか?


拓海:きっと昔は日本にもそういう人がいたと思うんですが、例えば中上健次さんの小説に出てくるオリュウノバと呼ばれる新宮の路地に住む老婆なんかがそうですよね。彼女は路地で生き死にする様々な人の話を聞き、またそれを語り続けるわけですが、人々はオバに話をすることで癒され、オバの語る物語の中に入っていくことで救われるんですね。


拓海:ただ、現在の日本でよく見られる新興宗教の教祖も、民間医療を施す似非医者や似非カウンセラーも、はたまた自己開発セミナーなどを主宰する講師も、実はこうしたドゥクンや藪医者の持つ心理操作技術を悪用しているわけで、僕はそうしたものが持つ危険な側面も決して見落としてはいけないと思います。


志田:なるほど、そうですね。特に日本にはそういうものが多いですから。


拓海:少し話がそれますが、実は僕には大変信頼している台湾人の漢方医の友人がいます。彼は京大の医学部を出たあと、日本と台湾で医師として働いていたのですが、やがて西洋医学の限界に気付き、中国に渡って漢方の勉強をし、漢方医になりました。彼によると、毛沢東の唯一の功績は漢方の研究を国家の一大プロジェクトとして推し進めたことであり、漢方医学はその間にそれ以前の2000年分の蓄積を上回るほどの進歩を遂げたそうです。


拓海:ところが、日本ではほとんどの人がそのことを理解していない上に、漢方の神秘的なイメージに惹かれやすい人も多いため、まがい物やインチキ商売をする人たちにとってはやりやすいマーケットなのだそうです。彼曰く、近代社会の中で日本ほど怪しげな民間療法がはびこっているところはないとのことで、何故そんなことになるのかを少し冷静に考える必要もありますね。


志田:言われてみると、本当にそう思います。


拓海:インドネシアでは、ドゥクンになる人は、自分がドゥクンであるが故に、様々な利害関係からハッキリと距離を置いており、できるだけ客観的な立場に立つようにしています。そして、生身の人間としてではなく、霊の声を借りて語ることによって、引き続きそれらとの間に距離を保つことが出来るのですが、これはとても重要なことですね。


志田:ドゥクンは誰かに選ばれるのですか?


拓海:幾つかのパターンがあるようですが、一番多いのはその感受性の鋭さを見出された人が先輩のドゥクンについて修行をし、やがて独り立ちするというケースだと思います。そして、子供の頃からドゥクンとしての素質を見出されていた人、あるいは成人してから見出された人など、様々なケースがあります。特に成人してから見出される人の多くは何か人生の大きな問題に直面して、死ぬほど悩んだり深い絶望を経験した後にドゥクンとして目覚めたりしているようですね。


志田:人はそういう問題に直面して傷つかないと、なかなかちゃんと考えないからでしょうか?


拓海:そうかも知れませんね。


志田:そうすると、傷つくってこともまんざら悪いことではないですよね。


拓海:そうですね。自分の傷をちゃんと見据えて、それをどんな風に癒したのかということが、今度は他人の傷を受け入れて、それを癒すということにつながると思います。つまり、自分がきちんと傷を負えない人は、他人の傷を治すことは出来ないってことなんじゃないでしょうか? でも、それは何もドゥクンに限ったことではなくて、人間一般について言えることだと思いますが・・・。


志田:なるほど。南の島ってやっぱり豊かなんですね。


拓海:本当にそう思います。


志田:まだまだたくさん聞きたいことがあるのですが、時間がなくなってしまいました。拓海さん、今日はどうもありがとうございました。


拓海:こちらこそ、ありがとうございました。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)



ジャカルタの路地裏で活躍するドゥクン】


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