拓海広志「天皇と熊野(2)」

 これは今から12年ほど前にジャカルタで書いた小文です。よろしければお読みください。


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 ところで、大和朝廷桓武天皇の代に京都への遷都を敢行し、平安京が建設されたのであるが、この都が当時の中国における都市設計思想に影響を与えていた陰陽道に基づいてデザインされたものであることはよく知られている。


 福永光司氏の『道教と古代日本』、吉野裕子氏の『大嘗祭』、渡邊欣雄氏の『風水・気の景観地理学』などを読むとより理解が深まるのだが、大和朝廷はその初期の段階から道教思想や陰陽道思想の強い影響下にあり、彼らの自然観や統治思想、都市設計思想は、それらと新来の仏教や密教、あるいは縄文古来のアニミズム的要素の強い神道や、汎東アジア的な民間信仰である風水思想などの諸要素が入り交じった中で形成されていたようである。


 大和朝廷は自らと対立する列島の先住民たちを「夷」と呼び捨て、桓武期には征夷大将軍坂上田村麻呂の率いる大軍が強敵アテルイの率いる蝦夷軍を攻めたてたのだが、実のところ倭建命から田村麻呂に至るまで、「夷」を攻める任を受けた者の多くは政権内の傍流にいた体制内異人とでも言える人たちであり、そこには「異をもって夷を制す」という政略の匂いを嗅ぎ取ることができる。


 「夷」を討つことを使命とした征夷大将軍の称号は、時代が下ると鎌倉・室町・江戸幕府の施政者たる将軍を指すものへと変質していったのだが、もしかしたら朝廷が彼らにその称号を与えた背後には「異をもって夷を制す」という天皇家独特の政略的思考が引き続き潜んでいたのかも知れない。


 馬場あき子氏の『鬼の研究』などに詳述されているように、朝廷によって滅ぼされた「夷」の神々(国ツ神)や、利用された後に勢力を削がれた「異」の人々(悪党)たちは、やがて「鬼」へと変質していく。こうした鬼たちの怨念を恐れつつ、彼らの持つ力を巧みに利用しようとする政略的思考は、平安京造営にあたっての基本コンセプトの中にも見受けられるし、天皇家あるいは日本において実質的な政権を担ったものの行動の中にも常に見え隠れしてきた。


 そして、古代から中世にかけて、奈良・京都という天皇の居場所から最も近いところにあった巨大な「夷」的エリアである熊野に対して付与された宗教的イメージについては、こうした中央政権の思惑を無視しては語れない筈だ。


 朝廷は都の外側にある「夷」的エリアを政権にまつろわぬ者たちの住む異郷であると断定し、時にはその後進性や野蛮性を強調してみたり、また時にはその非現実性や神秘性を強調することによって、政権内部の緊張感を高めたり、あるいはそうした「夷」の力をうまく政権内に取り込むことによって、自らの力を補強しようとしてきた。そして、熊野については特にそうしたイメージ操作が甚だしく行われたのではないかと僕は思うのである。


 権力者が異人たちの住む地域に対して特定のイメージを付与する際には、何らかの政治的な意図があったと考えるのが普通であり、そうした観点から熊野の持つイメージを捉え直してみる必要がありそうだ。


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 中世に入り、白河上皇院政期に天皇家の力が絶頂期を迎え、やがて台頭してきた武家勢力に押されてその力が急速に弱まっていく過程において、熊野が他界とされるが故に孕んでいた「再生」のイメージは天皇家によって大いに利用されたと言える(このイメージは修験道における「擬死再生」思想とも結びついている)。


 その具体的な表れが上皇たちによる熊野御幸であり、彼らは熊野の持つ自然の力、つまり再生力によって天皇家を加護しうる宗教的な力を得ようとしたのである。勿論、天皇家天照大神を祀る伊勢神宮と直結しており、当時はまだ由来も明確ではなかった熊野三山天皇本人が結びつくわけにはいかなかったので、そうしたことに束縛されない上皇の出番となったのだろう。


 それにしても、自然との結びつきによって自らの正当性を高め、力を得ようとする天皇家の執念は凄まじい。後白河上皇院政期にあたる長寛元年(1163年)に行われた「長寛勘文」において伊勢・熊野両神の同体論が本格的に論究されたことや、本宮の祭神・家津御子大神を素戔嗚尊と同神とし、新宮の祭神を伊弉諾尊の唾から化生した速玉之男神に、また那智の祭神・夫須美大神を伊弉冉尊にあてることを決めた背景には、熊野を取り込むことによって自らの宗教的権威を拡張しようとする天皇家の意図があったことは言うまでもないだろう。


 ただし、熊野御幸の背後には、既に大きな力を持つようになっていた熊野三山(本宮、新宮、那智)の修験者たちを統率する熊野別当を完全に体制内に抑え込んでしまおうという朝廷としての思惑もあった筈で、そこには極めて現実的で政治的な駆け引きもあったと思われる。


 そして、そうした時流の中で熊野は伊勢、出雲と並ぶ大社としての地位を獲得し、いわば朝廷の思惑に便乗する形で自らの社格を上げていったのである(先述の「長寛勘文」に収められた「熊野権現垂迹縁起」は、熊野権現を唐から九州の彦山、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山を経て熊野にやってきた神であるとしているが、これらは全て修験道の聖地であり、この勘文を巡って朝廷と熊野の修験者たちの思惑が交錯していたことが伺え、非常に興味深い)。


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 上皇たちの熊野御幸を契機として、熊野信仰は一般庶民にまで広がりを見せるようになり、やがてそれは「蟻の熊野詣」と称されるほどの熊野巡礼ブームへと発展していったのだが、考えてみるとこれもまた往時における「自然体験博」のようなものだったのかも知れない。イメージを作り出す者、それを真に受ける者、便乗して利用する者、そうしたこととは無縁の生活を送っている者、こうした人々のあり様は今も昔もそうは変わらないのである。


(後略・・・)


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